表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
土塀の町でわたしは兄の親友に恋をした。凍る国からの帰還兵はメープルホテルで出会う。  作者: レモン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/43

第32話  メープルガーデンで

そこは、かつて日本に存在した、最も美しく激動の「異世界」だった。


お茶の香りと、西洋の風と、十五年だけ存在した幻のホテル


びわ色の土塀が続く古い城下町。木立に囲まれた螺旋階段の洋館「メープルホテル」。


「兄の親友」へのひたむきな想いを抱えた少女時代。


凍る大地からの帰還兵を待っていたのは、戦後の光を放つ「メープルホテル」と、変わった故郷、そしてずっと変わらぬびわ色の道だった。

誰を愛し、誰と生き、誰を永遠の記憶に刻むのか。

碧伊は、その日メープルホテルに泊まっていた。

彼女の祖母の7回忌の法事があって、久しぶりに名古屋から、故郷に戻ってきていた。


実家には、母の兄弟など、遠くから来た親戚を優先して泊めさせ、碧伊はホテルに泊まっている。

義兄のいる実家に滞在したくなかったので、碧伊にとっては、かえって好都合だった。

義兄は暫くの間、刺々しかったが、父が結婚式ギリギリまで知らせもせず、放置していたのだから致し方ない。


結婚式で、碧伊と夫が仲良く並んでいるのを目にすると、諦めたのだろう、何も言わなくなった。



今日はゆっくりと午後汽車に乗り、夫と暮らしている名古屋へ戻るだけだ。

秋は深まっているが、よく晴れて、陽射しが暖かい。


フロントに荷物を預けて、コートだけ羽織って、ホテルの庭に出る。


この紅葉に誘われて、やはり庭のテーブル席には、あちこち座っている人が多い。


辺り一面を染めている紅葉が美しかったので、部屋から眺めるだけでは勿体無い、碧伊も、ちょっと庭のテーブル席に座ってみたかった。


紅茶を注文して、人々や景色の中に混じり、秋を楽しむ。

足元の地面を、赤や黄に染まった落ち葉が彩っている。

向こうに見える木立の中にも紅葉した樹木があって、本当に綺麗だ。


碧伊は、この建物が好きで、郷里に戻ったときは、ここに立ち寄るのを楽しみにしている。


今回はちょうど紅葉の季節と用事が重なって、良かったと思う。


周りの人は、ベージュに、黒のボタンや襟の縁取りがアクセントになったコートを着て座っている碧伊を振り返って見ている。


コートのベージュの色合いが、碧伊の白い肌を美しく引き立てている。


そこは、建物の前庭に広がるスペースなので、木立の中、ゲートへと続く道も見えた。


ちょうど、その道の方から、黒っぽい車が静かに入ってきて、西側の駐車場の方へ行って停まった。

見るともなく見ていると、その車から、スーツの上にコートを着た男性が降りてきた。


建物の方へ歩いてくる、誰だかわからない男性に、何故か蒼伊は注意が引きつけられて、視線を向けていた。


碧伊の視線に気付いたように、その男性もこちらを見た。

そして、その男性は、碧伊を見るなり、立ち止まってしまった。

驚いたように見ている。


《?……この人は……》


彼はこちらに向かって、迷わずに歩いて来る。


「碧伊!」


そう呼びかけられて、碧伊は、頭が付いて行かないまま、言葉が出ていた。


「和史くん……」


目の前に来た和史が、まじまじと碧伊を見ている。


碧伊も思わず立ち上がって、見つめ返した。


そこには、記憶にある、かつての少年っぽさはまったく消えた、大人の男性が立って、碧伊を凝視している。

面立ちそのものが変わったようだ。でも、和史だとわかる。


「碧伊、本当に久しぶりだね……」


「和史君、……戻ったのね」


「うん」


そう言って和史は、微笑んだ。微笑む顔は、あの頃のままだ。


「いつ戻ったの? 」


二人は、紅葉の葉が地面まで覆い尽くしそうな、赤い世界で再会していた。


「1年半くらい前かな。シベリアに抑留されてたんだ。」


「そうだったの……。大変だったね」


碧伊は、ため息をついた。


「良かった、無事で」


昔の和史を知っている彼女には、彼がどんなに大変な死線をくぐってきたか、その面差しの違いでわかるような気がした。


「だからなかなか帰れなかったんだ。」


「私は何もできなくて。和史君が戻って来たのも知らなくて……」


「帰って来た時はボロボロになってて、何ヶ月か入院して療養してたしね」


「そうなの……」


碧伊は二人とも、突っ立っているのに気付き、空いてる椅子に座るように、和史にすすめ、二人は何年ぶりかに並んで座った。


何か夢の中にいるような気がする。


「今はどう?」


「体調も戻ったしね。左手には後遺症が残ったけどね。今は、父の会社を手伝ってる」


「そう言えば、昔から和史君は、その予定だったね」


「うん。最近は忙しくなってるよ」


和史は元気になり、色々なことが、とても順調のようだ。


こうして身近で向き合うと、やはり、幼馴染みの和史に他ならなくて、これまでの空白を超えて、まるで昨日まで会っていたかのように、二人の間に、あの頃と同じ空気が溶けて流れ出すのがわかる。


「碧伊は、結婚して遠くに言ってると、姉に聞いた」


「今は、名古屋に住んでるわ」


「とても元気そうだし、幸せそうだ」


「実家にいる時より、ずっとね」


「今日は、こっちに帰って来てるの?」


「ええ。祖母の法要で、ここに泊まったの。素敵な所ね」


碧伊は、今も実家に帰りたくないのだろう。

義兄と不仲なのは昔から感じていたし、姉もそう言っていた。


「今日、ほんとに偶然会えるなんて」


「そうね。私ね、和史君はきっと生きて帰るし、また会えるって、ずっと思ってたよ」


「あの時も、碧伊は、そう言ったね」


和史は覚えていた。


「うちの両親も言ってたよ。碧伊さんに、絶対無事に戻ってくるって、いつも言われたって」


二人は、顔を見合わせて、何年振りかに笑った。


紅葉の中に二人は座っていた。


生きて、この空気感をやっと取り戻すことができた。


「今日は、これから会食があって、ここに来てるんだ」


「そう。私はこれから汽車に乗って帰る予定だったけど、紅葉があんまり綺麗なので座ってたの」


スタッフが来たので、碧伊は会計をした。


「予定があるんでしょ?」


「うん、とりあえず中に入ろうか」


さすがに、ずっと居ると寒かった。


「私も、フロントに預けてる荷物を受け取りに行くわ」


二人は並んで、館内へ向かって歩いた。

こうして並んで歩くのはいつぶりだろう。


「そうだ、碧伊は背が高かったんだな」


久しぶりに並んで歩いた感想を、和史は言った。


碧伊は微笑したが、並んで歩く和史は、すでにしっかりとした、大人の男性だった。


中学生の初め位まで、碧伊の方が、背が高かったのだ。

それで、和史をずっと弟のように扱っていたことも、長い間あった。


周りの人々がすれ違いざまに、碧伊のほうを振り向くのも、昔と同じだと、和史は思った。


《碧伊の横に居るとは、そういうことだったな》


でも、以前の碧伊は、どちらかと言えば、居心地悪そうに、不安そうにしている時もあったが、今の碧伊には全くそんな様子はなく、とても自然で優雅だ。


二人が館内に入ったところで、今日の会合の出席者が、和史を見かけて、声をかけて来た。


その様子で、


《和史君は、もはや、父親の会社を継いで仕事をしているのだ》


と、つくづく思う。碧伊は、学生の彼しか知らない。


碧伊は、フロントの方へ預けた荷物を受け取りに行った。


荷物を受け取ったとき、奥から出て来た遥佳が、碧伊を見つけてこちらへ来た。

彼女は嬉しそうに、笑顔で


「碧伊さん、お久しぶりです。いつもご利用いただきありがとうございます。

今日はもう、お帰りですか?」


と、挨拶をしてきた。


快活で、いつも丁寧に礼を言う可愛い遥佳が、碧伊は好きだった。


「お世話になりました。また来ますね」


碧伊も彼女に笑顔で答えた。


知人と話し終えた和史が、こちらへ歩いて来ていた。


「あ、そうだ」


遥佳は、小さく言って、


「あの、碧伊さん、私も婚約したんです」


遥佳は和史の傍に行った。そしてはにかんだ様子で言った。


「紹介します。婚約者の、水島和史さんです……」


婚約者。 水島和史……

その響きだけが、遅れて胸の奥に落ちてくる。


《えっ》


碧伊は驚いて、二人の方へ視線を向けた。

和史と視線が合った。


《そうなんだ》


そう、和史が頷いたような気がした。


彼はそれから穏やかな視線を傍の遥佳へ向けた。


すっかり大人の男性の雰囲気の和史のそばに、碧伊より小柄で可愛らしい遥佳がにこにこして立っている。兄妹のようにも見える。


そう言えば……。

碧伊は和史の横にこうして女の子がいるのを、一度も見たことがなかった。


……いつも自分が居たのは忘れて。

それは不思議な感覚だった。


遥佳は、傍の婚約者に、今度は碧伊のことを紹介しようとした。


「こちらは、私のお茶の先輩の碧伊……」


言いかけた遥佳に、和史は微笑んで言った。


「遥佳、よく知ってるよ。碧伊さんは、同級生で、幼馴染みなんだ」


「えっ、そうなんですか」


今度は遥佳がびっくりして、二人を交互に見て言った。


「実はさっき庭で、何年ぶりかに会って、びっくりしたんだ」


和史が言った。


「私は、和史君が戦地から戻って来たのも全然知らなくて。今日は本当に、こうして無事で元気な顔を見れて、良かった」


碧伊は、和史と遥佳を見て言った。

当惑しつつも、言葉は普通に流れる。


何年かぶりに和史に会えたことも偶然で、喜ばしいことだったし、しかも、碧伊の後輩が婚約者になっていたことも、偶然だったけど、喜ばしいことだ。


落ち着いて優しい眼差しを遥佳に向ける和史、そして、横に立ち、和史を見上げる遥佳が、彼を心から慕っていることが、碧伊にもよくわかった。


和史君は彼女となら、きっと幸せになるだろう。


碧伊は、そう思った。死戦を越えてきた彼に、心から良かったと、言いたかった。結局自分は何もできなかったから。

せめて、心からお祝いを言おう。


碧伊は、綺麗な微笑をして、ゆっくりと言った。


「今日は、無事に戻って来た和史君に会えて、本当に嬉しかった。それからお二人が、婚約されていたことも。

和史君、遥佳さん、ご婚約おめでとうございます。

どうぞ、お幸せに」


「ありがとうございます」


遥佳がやはり、はにかんで幸せそうに言った。


「碧伊も元気で」


和史が言う。


「あの、タクシーを呼びますね」


遥佳はそう言って、受付に行って手配してくれた。


再び、和史と二人で向き合って立った。


「今日は本当にびっくりしちゃった。和史君にも会って、婚約者も偶然、お茶の仲間だったなんて。遥佳さんは、明るくて優しい人、きっと和史君幸せね」


「ありがとう。彼女がまだ学生だから、式を挙げるのは、もう少し先だけどね」


穏やかに微笑んで和史は言った。

それから、


「話には聞いていたけれど、碧伊がとても幸せそうで、本当に良かったと思ってる。元気で、碧伊」


そう言った。

遥佳が戻って来て、車はすぐに来るとのことだった。


「ありがとう。じゃあ、外で待つことにするわ。また、帰った時には利用させていただきますね」


碧伊は遥佳に言った。


「じゃあ……」


と言いかけて、碧伊は再び、昔と同じ言葉しか浮かばない自分に苦笑した。


「また」


しかし、それを引き受けるようにして、和史が言った。


二人に見送られる中、碧伊は、踵を返して玄関出口の方へ歩いて行った。

和史と遥佳は、そのすらりとして、凛とした後ろ姿を見送った。



碧伊は玄関ポーチを降りると、再び、美しい紅葉の庭を眺めずにはいられなかった。

さっきより人の数は増えていて、落ち葉の上を散策しているカップルもいる。


今日は紅葉色の世界で、和史と再会した。

この美しい光景を忘れないだろう。


そして、心が何故か、揺れていた。


しばらくして、タクシーが到着した。


碧伊が振り返ることもなく乗り込むと、タクシーは静かに発進した。

窓の外に、紅葉した木々が流れていく。

陽はまだ高く、午後の光が柔らかく、メープルホテルを包んでいた。


碧伊は、汽車に乗るための駅ではなく、


「門前町の図書館までお願いします」


自分の声が、そう告げるのを聞いていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ