第32話 メープルガーデンで
そこは、かつて日本に存在した、最も美しく激動の「異世界」だった。
お茶の香りと、西洋の風と、十五年だけ存在した幻のホテル
びわ色の土塀が続く古い城下町。木立に囲まれた螺旋階段の洋館「メープルホテル」。
「兄の親友」へのひたむきな想いを抱えた少女時代。
凍る大地からの帰還兵を待っていたのは、戦後の光を放つ「メープルホテル」と、変わった故郷、そしてずっと変わらぬびわ色の道だった。
誰を愛し、誰と生き、誰を永遠の記憶に刻むのか。
碧伊は、その日メープルホテルに泊まっていた。
彼女の祖母の7回忌の法事があって、久しぶりに名古屋から、故郷に戻ってきていた。
実家には、母の兄弟など、遠くから来た親戚を優先して泊めさせ、碧伊はホテルに泊まっている。
義兄のいる実家に滞在したくなかったので、碧伊にとっては、かえって好都合だった。
義兄は暫くの間、刺々しかったが、父が結婚式ギリギリまで知らせもせず、放置していたのだから致し方ない。
結婚式で、碧伊と夫が仲良く並んでいるのを目にすると、諦めたのだろう、何も言わなくなった。
今日はゆっくりと午後汽車に乗り、夫と暮らしている名古屋へ戻るだけだ。
秋は深まっているが、よく晴れて、陽射しが暖かい。
フロントに荷物を預けて、コートだけ羽織って、ホテルの庭に出る。
この紅葉に誘われて、やはり庭のテーブル席には、あちこち座っている人が多い。
辺り一面を染めている紅葉が美しかったので、部屋から眺めるだけでは勿体無い、碧伊も、ちょっと庭のテーブル席に座ってみたかった。
紅茶を注文して、人々や景色の中に混じり、秋を楽しむ。
足元の地面を、赤や黄に染まった落ち葉が彩っている。
向こうに見える木立の中にも紅葉した樹木があって、本当に綺麗だ。
碧伊は、この建物が好きで、郷里に戻ったときは、ここに立ち寄るのを楽しみにしている。
今回はちょうど紅葉の季節と用事が重なって、良かったと思う。
周りの人は、ベージュに、黒のボタンや襟の縁取りがアクセントになったコートを着て座っている碧伊を振り返って見ている。
コートのベージュの色合いが、碧伊の白い肌を美しく引き立てている。
そこは、建物の前庭に広がるスペースなので、木立の中、ゲートへと続く道も見えた。
ちょうど、その道の方から、黒っぽい車が静かに入ってきて、西側の駐車場の方へ行って停まった。
見るともなく見ていると、その車から、スーツの上にコートを着た男性が降りてきた。
建物の方へ歩いてくる、誰だかわからない男性に、何故か蒼伊は注意が引きつけられて、視線を向けていた。
碧伊の視線に気付いたように、その男性もこちらを見た。
そして、その男性は、碧伊を見るなり、立ち止まってしまった。
驚いたように見ている。
《?……この人は……》
彼はこちらに向かって、迷わずに歩いて来る。
「碧伊!」
そう呼びかけられて、碧伊は、頭が付いて行かないまま、言葉が出ていた。
「和史くん……」
目の前に来た和史が、まじまじと碧伊を見ている。
碧伊も思わず立ち上がって、見つめ返した。
そこには、記憶にある、かつての少年っぽさはまったく消えた、大人の男性が立って、碧伊を凝視している。
面立ちそのものが変わったようだ。でも、和史だとわかる。
「碧伊、本当に久しぶりだね……」
「和史君、……戻ったのね」
「うん」
そう言って和史は、微笑んだ。微笑む顔は、あの頃のままだ。
「いつ戻ったの? 」
二人は、紅葉の葉が地面まで覆い尽くしそうな、赤い世界で再会していた。
「1年半くらい前かな。シベリアに抑留されてたんだ。」
「そうだったの……。大変だったね」
碧伊は、ため息をついた。
「良かった、無事で」
昔の和史を知っている彼女には、彼がどんなに大変な死線をくぐってきたか、その面差しの違いでわかるような気がした。
「だからなかなか帰れなかったんだ。」
「私は何もできなくて。和史君が戻って来たのも知らなくて……」
「帰って来た時はボロボロになってて、何ヶ月か入院して療養してたしね」
「そうなの……」
碧伊は二人とも、突っ立っているのに気付き、空いてる椅子に座るように、和史にすすめ、二人は何年ぶりかに並んで座った。
何か夢の中にいるような気がする。
「今はどう?」
「体調も戻ったしね。左手には後遺症が残ったけどね。今は、父の会社を手伝ってる」
「そう言えば、昔から和史君は、その予定だったね」
「うん。最近は忙しくなってるよ」
和史は元気になり、色々なことが、とても順調のようだ。
こうして身近で向き合うと、やはり、幼馴染みの和史に他ならなくて、これまでの空白を超えて、まるで昨日まで会っていたかのように、二人の間に、あの頃と同じ空気が溶けて流れ出すのがわかる。
「碧伊は、結婚して遠くに言ってると、姉に聞いた」
「今は、名古屋に住んでるわ」
「とても元気そうだし、幸せそうだ」
「実家にいる時より、ずっとね」
「今日は、こっちに帰って来てるの?」
「ええ。祖母の法要で、ここに泊まったの。素敵な所ね」
碧伊は、今も実家に帰りたくないのだろう。
義兄と不仲なのは昔から感じていたし、姉もそう言っていた。
「今日、ほんとに偶然会えるなんて」
「そうね。私ね、和史君はきっと生きて帰るし、また会えるって、ずっと思ってたよ」
「あの時も、碧伊は、そう言ったね」
和史は覚えていた。
「うちの両親も言ってたよ。碧伊さんに、絶対無事に戻ってくるって、いつも言われたって」
二人は、顔を見合わせて、何年振りかに笑った。
紅葉の中に二人は座っていた。
生きて、この空気感をやっと取り戻すことができた。
「今日は、これから会食があって、ここに来てるんだ」
「そう。私はこれから汽車に乗って帰る予定だったけど、紅葉があんまり綺麗なので座ってたの」
スタッフが来たので、碧伊は会計をした。
「予定があるんでしょ?」
「うん、とりあえず中に入ろうか」
さすがに、ずっと居ると寒かった。
「私も、フロントに預けてる荷物を受け取りに行くわ」
二人は並んで、館内へ向かって歩いた。
こうして並んで歩くのはいつぶりだろう。
「そうだ、碧伊は背が高かったんだな」
久しぶりに並んで歩いた感想を、和史は言った。
碧伊は微笑したが、並んで歩く和史は、すでにしっかりとした、大人の男性だった。
中学生の初め位まで、碧伊の方が、背が高かったのだ。
それで、和史をずっと弟のように扱っていたことも、長い間あった。
周りの人々がすれ違いざまに、碧伊のほうを振り向くのも、昔と同じだと、和史は思った。
《碧伊の横に居るとは、そういうことだったな》
でも、以前の碧伊は、どちらかと言えば、居心地悪そうに、不安そうにしている時もあったが、今の碧伊には全くそんな様子はなく、とても自然で優雅だ。
二人が館内に入ったところで、今日の会合の出席者が、和史を見かけて、声をかけて来た。
その様子で、
《和史君は、もはや、父親の会社を継いで仕事をしているのだ》
と、つくづく思う。碧伊は、学生の彼しか知らない。
碧伊は、フロントの方へ預けた荷物を受け取りに行った。
荷物を受け取ったとき、奥から出て来た遥佳が、碧伊を見つけてこちらへ来た。
彼女は嬉しそうに、笑顔で
「碧伊さん、お久しぶりです。いつもご利用いただきありがとうございます。
今日はもう、お帰りですか?」
と、挨拶をしてきた。
快活で、いつも丁寧に礼を言う可愛い遥佳が、碧伊は好きだった。
「お世話になりました。また来ますね」
碧伊も彼女に笑顔で答えた。
知人と話し終えた和史が、こちらへ歩いて来ていた。
「あ、そうだ」
遥佳は、小さく言って、
「あの、碧伊さん、私も婚約したんです」
遥佳は和史の傍に行った。そしてはにかんだ様子で言った。
「紹介します。婚約者の、水島和史さんです……」
婚約者。 水島和史……
その響きだけが、遅れて胸の奥に落ちてくる。
《えっ》
碧伊は驚いて、二人の方へ視線を向けた。
和史と視線が合った。
《そうなんだ》
そう、和史が頷いたような気がした。
彼はそれから穏やかな視線を傍の遥佳へ向けた。
すっかり大人の男性の雰囲気の和史のそばに、碧伊より小柄で可愛らしい遥佳がにこにこして立っている。兄妹のようにも見える。
そう言えば……。
碧伊は和史の横にこうして女の子がいるのを、一度も見たことがなかった。
……いつも自分が居たのは忘れて。
それは不思議な感覚だった。
遥佳は、傍の婚約者に、今度は碧伊のことを紹介しようとした。
「こちらは、私のお茶の先輩の碧伊……」
言いかけた遥佳に、和史は微笑んで言った。
「遥佳、よく知ってるよ。碧伊さんは、同級生で、幼馴染みなんだ」
「えっ、そうなんですか」
今度は遥佳がびっくりして、二人を交互に見て言った。
「実はさっき庭で、何年ぶりかに会って、びっくりしたんだ」
和史が言った。
「私は、和史君が戦地から戻って来たのも全然知らなくて。今日は本当に、こうして無事で元気な顔を見れて、良かった」
碧伊は、和史と遥佳を見て言った。
当惑しつつも、言葉は普通に流れる。
何年かぶりに和史に会えたことも偶然で、喜ばしいことだったし、しかも、碧伊の後輩が婚約者になっていたことも、偶然だったけど、喜ばしいことだ。
落ち着いて優しい眼差しを遥佳に向ける和史、そして、横に立ち、和史を見上げる遥佳が、彼を心から慕っていることが、碧伊にもよくわかった。
和史君は彼女となら、きっと幸せになるだろう。
碧伊は、そう思った。死戦を越えてきた彼に、心から良かったと、言いたかった。結局自分は何もできなかったから。
せめて、心からお祝いを言おう。
碧伊は、綺麗な微笑をして、ゆっくりと言った。
「今日は、無事に戻って来た和史君に会えて、本当に嬉しかった。それからお二人が、婚約されていたことも。
和史君、遥佳さん、ご婚約おめでとうございます。
どうぞ、お幸せに」
「ありがとうございます」
遥佳がやはり、はにかんで幸せそうに言った。
「碧伊も元気で」
和史が言う。
「あの、タクシーを呼びますね」
遥佳はそう言って、受付に行って手配してくれた。
再び、和史と二人で向き合って立った。
「今日は本当にびっくりしちゃった。和史君にも会って、婚約者も偶然、お茶の仲間だったなんて。遥佳さんは、明るくて優しい人、きっと和史君幸せね」
「ありがとう。彼女がまだ学生だから、式を挙げるのは、もう少し先だけどね」
穏やかに微笑んで和史は言った。
それから、
「話には聞いていたけれど、碧伊がとても幸せそうで、本当に良かったと思ってる。元気で、碧伊」
そう言った。
遥佳が戻って来て、車はすぐに来るとのことだった。
「ありがとう。じゃあ、外で待つことにするわ。また、帰った時には利用させていただきますね」
碧伊は遥佳に言った。
「じゃあ……」
と言いかけて、碧伊は再び、昔と同じ言葉しか浮かばない自分に苦笑した。
「また」
しかし、それを引き受けるようにして、和史が言った。
二人に見送られる中、碧伊は、踵を返して玄関出口の方へ歩いて行った。
和史と遥佳は、そのすらりとして、凛とした後ろ姿を見送った。
碧伊は玄関ポーチを降りると、再び、美しい紅葉の庭を眺めずにはいられなかった。
さっきより人の数は増えていて、落ち葉の上を散策しているカップルもいる。
今日は紅葉色の世界で、和史と再会した。
この美しい光景を忘れないだろう。
そして、心が何故か、揺れていた。
しばらくして、タクシーが到着した。
碧伊が振り返ることもなく乗り込むと、タクシーは静かに発進した。
窓の外に、紅葉した木々が流れていく。
陽はまだ高く、午後の光が柔らかく、メープルホテルを包んでいた。
碧伊は、汽車に乗るための駅ではなく、
「門前町の図書館までお願いします」
自分の声が、そう告げるのを聞いていた。




