第30話 美しい夜の花あかり 1
そこは、かつて日本に存在した、最も美しく激動の「異世界」だった。
お茶の香りと、西洋の風と、十五年だけ存在した幻のホテル
びわ色の土塀が続く古い城下町。木立に囲まれた螺旋階段の洋館「メープルホテル」。
「兄の親友」へのひたむきな想いを抱えた少女時代。
凍る大地からの帰還兵を待っていたのは、戦後の光を放つ「メープルホテル」と、変わった故郷、そしてずっと変わらぬびわ色の道だった。
誰を愛し、誰と生き、誰を永遠の記憶に刻むのか。
美夜が、その後隼人に会ったのは、女子大からの帰りで、S市から土塀のある門前町まで、電車に乗っている時だった。
実家へ帰るところなのか、隼人は同じ車両の、少し離れた席に座っていた。
混み合う時間にはまだ早いので、人は多くない。
今日の隼人は一人だった。
S市に住んでいると兄から聞いていたので、今日は実家に帰るのかもしれない。
これまで、再会した隼人は、ほとんど話もせず、いつも美夜の前から、連れの女性と去って行った。
隼人には、もう美夜が、存在する余地のない、別の世界があるのだろう。
陸とは飲みに行くこともあるが、美夜も加わり、3人で過ごす、昔のような時間は来ない。
友人の妹という、知人の一人に過ぎないのだろう。
列車に揺られながら、美夜は今も、自分の膝に置いた鞄のポケットに入っている、万年筆を見つめた。
あの見送りの時、隼人がくれた万年筆だ。
《そうよね、昔のことだもん、普通忘れてるよ。子供だったし》
隼人は、あの時、大泣きして見送る、親友の中学生の妹を労わってくれたのだろう。
寂しく、恋しい気がするが、それは、昔の隼人に対してなのか、今、再会している隼人に対してなのかも、わからない。ほとんど話もしていない。
美夜の視線に気付いたのか、隼人がゆっくりこちらを見た。
美夜は、軽く会釈だけした。
土塀の町の駅に着いて、二人は同じ駅で降りた。
距離が近くなったので、美夜は
「今日は」
と言った。
「今、帰り?」
隼人が言った。
「はい」
美夜は、そのまま一人で歩いて行こうとしていたので、次に、隼人が話しかけてきたことに、驚いた。
「少し歩かないか。川沿いに。」
隼人は言ったのだった。
小さな川に沿って、満開の桜がずっと続いている。
「桜の季節だな。花見はした?」
「今年はまだ。去年は、ベンさんたちと、皆んなでお花見したけど。」
「ああ、そう言えば、この間、陸が言ってたな。お前、美青年に、ラブレターを貰ってるんだって?」
「ええと」
「進駐軍の男とできてるとは。お前もやるなあ」
からかうように、隼人が言った。
「いいえ、違う。そんなのでは。
大火のとき、おばあちゃんとお母さんしかいなくて、ベンさんと、ウィルが駆けつけて、助けてくれたの。でなければ、どんなことになってたか。
あの人達は恩人だし、家族皆んなと友だち」
美夜は、言った。
「まあ、色々あったんだなあ。悪かった、変なことを言って」
「ううん。」
陸から、戦争中のことや神戸のことは、隼人に言わないように、と以前から聞いていた美夜は、こうして身近にいても、何を話したら良いのか分からなかった。
それで、自分や家族のことを、話し続けることにした。
「それで、いつかお父さんを連れて、ベンさんたちの国へ、旅行に行けたらいいな、と思ってる。その時、通訳したいから、英文科に通ってて、そして英語の先生になるつもり」
彼には、興味がないだろう。ただ、他愛ない、美夜の世間話だ。
夕暮れになりかけた川のほとりを、カラカラと音を立てて、ゆっくり人力車が走り過ぎる。
城下町は戦後、企業のお膝元にもなり、賑わっている。
昔からの料亭の他、新しい料亭もいくつか出来て、夕方になると、座敷に呼ばれた芸妓を乗せた人力車が行き来して、彩りを添えていた。
折しも、桜の季節で、川沿いに、桜が続く。
「みんな夜桜見物かな。おとつい、俺もS市で行った。友達や同僚と」
隼人は、あの派手な女性たちと、夜桜見物をしたのかな、と美夜は思う。
「隼人くんは、いつも、恋人みたいな女の人達沢山いるね」
隼人は
「ハハハ・・・」
と、笑った。
そして、ぽつんと言った。
「昔、見送りをしてくれた時のことを、覚えてるか?」




