第29話 煙の向こう側に
翌日午前中に、隼人は、メープルホテルのエントランスに入って、ロビーのソファに座っていた。ここに来るのは、マスター達と一緒に来た時以来だ。
以前はこういう建物があるのは知らなかったし、自分が引きこもったようになっている間に、新しい試みを、この故郷の町でもしている人がいるのだな、と思う。
木立の中にあるこの洋館は、確かに落ち着く。
加奈もここが気に入ったと言っていた。
しばらくすると、加奈が階段を降りて来た。
小さめの旅行バッグを持っている。
改めて見ると、彼女の服装や派手な化粧は、S市ならともかく、この町では明らかに浮いていて、地元の人間ではないのがわかる。
「もう、隼人は、泊まってくれないんだから。せっかく来たのに」
彼女は、恨みがましく言った。
以前、店の慰安旅行で来た時は、隼人はマスターと、加奈は姉と、男性女性の組に別れて部屋を取っていた。
だから、二人で泊まってはいない。
隼人は笑い、
「早目だけど、ダイニングがもう開いてるから、食事しよう」
と言った。
加奈は仕事柄、朝が遅いので、朝食と昼食は兼ねている。ちょうど良いだろう。
二人はホテルのレストランで、食事をした。
加奈は少し、沈みがちな表情ではあったが、最近のことなどを、ぽつぽつと話した。
それから、隼人が食事の会計をしようとホールのカウンターに行くと、そこにいたポニーテールの女性従業員が、隼人を見てちょっと頭を下げた。
《どこかで会ったことがあるのか……》
と、思ったが思い出せない。
そこへ、加奈が寄って来て言った。
「今、精算に行ったのだけど、隼人払ってくれてたの? そんな……」
「来てくれたんだ、せめてこのくらい」
彼女が、こちらに来るついでがあったから、というのは、多分嘘だろう。
隼人に会うために、加奈は来たのだ、と隼人にもわかっている。
あの、うなされていた夜の闇の時間、加奈は度々寄り添っていてくれたのだ。
自分は彼女を、愛してはいなかったが、感謝し、今度は彼女の幸福を願っている。
「じゃあ、駅に送って行こう」
加奈はゆっくり首を振った。
「昨日も今日も、ゆっくり隼人とお酒を飲んで、食事ができて、ありがとう。
私たち、お互いに幸福になれるといいわね。
私は一服して、自分で駅に行くから。ここで十分よ。
ほら、いつもみたいに――先に行きなさい」
隼人は加奈を見た。
「加奈、色々ありがとう。マスターによろしくな」
「隼人も元気でね」
「加奈も」
隼人が小さく手を上げて、ゆっくりエントランスの方へ行く。
その後ろ姿を見ながら、加奈はもう、見納めだと思った。
彼女は煙草に火を点ける。
ひと口、吸う。
ゆっくりと吐き出した煙が、視界を曇らせた。
その煙の向こうに、もう隼人の姿はなかった。
* * *
メープルホテルの娘、遥佳は、その日大学が休みだったので、ホテルの手伝いをしていた。
まず、今日の予約や連絡事項、自分の仕事の予定、宿泊者名簿に目を通しておく。
入り口のホールの方へ行くと、ちらほら人影がある。若い男の人がひとり、ソファに座っている。誰かと待ち合わせなのか。
暫くして、螺旋階段を女性が降りて来た。宿泊客の方だ。
見ると、茶色の巻き髪に、派手目に見える服装のせいで、ホールの中で、目を引いてしまう。
彼女は、ソファに座っていた若い男の方へ行った。
二人は、言葉を交わし、立ち上がった若い男性は、その女性と共に、ダイニングルームの方へ去って行った。
今朝、受付に入る時、目を通した宿泊名簿では、確か、この女性は、神戸の住所になっていたと思う。
その後、お客の出入りが多くなり、電話の応対など、遥佳は忙しくなった。
そして再び、カウンターの方へ戻ったとき、さっきの男性が食事を終えて、カウンターの前に、会計のため立っていた。
やっぱり、どこかで見たことがある人だ……
背の高さや、がっちりとした肩幅、はっきりとした顔立ちを間近で見て、遥佳は思い出した。
《あ、あの人だ。カクテルバーの帰りに、街で出会った。美夜ちゃんのお兄さんの友だちって言ってた人だった》
遥佳は、今日はホテルの従業員として、長い髪は後ろでポニーテールにして、制服を着ているし、その男性の方は、あの時の美夜の友人とは、全く気付かないだろう。
「お会計ですね。少々お待ちください」
と、伝える。
さっきの女性がやって来て
「今精算に行ったのだけど、隼人払ってくれてたの? そんなこといいのに…」
と言った。
「来てくれたんだ、せめてこれくらい」
美夜の兄の友人が言っている。
次のお客の精算や、接客を済ませて、遥佳が再びホールに目を向けた時、その派手な雰囲気の女性は、ソファーに座っていた。
さっきの男性が出て行った方をぼんやり見ながら、煙草の煙をくゆらせている。
彼女の赤いマニキュアを塗った細い指先が、何度か頬を拭っている。
顔は窓の方へそむけられていて、はっきりとは見えない。
それでも、涙を拭っているのだと、遥佳にはわかった。
煙草の煙が、ゆっくりと立ちのぼり、
その横顔を、かすかに隠していた。




