第28話 去りゆく場所
隼人が郷里に完全に戻ったのは、それから約1ヶ月後だった。
店では、隼人の送別会をしてくれた。
「初めて、あんたがここに来た頃には、表情がないし、どうしたのかと思ってたよ」
マスターは、感慨深く言う。
隼人も酷い気分を抱えて、初めて、表の重そうな扉を開けた夜のことを思い出す。ここで、それまで全く見ず知らずだった人達が、自分の傷を癒す助けになってくれたのだった。
「マスターのお陰だ。ありがとう。話を聞いてもらってるうちに、段々楽になってきたみたいだ」
「良かった」
「旅行も楽しかったし」
加奈の姉も言った。
この店には、隼人のように、常連で通っているお客も多い。
最初の頃、隼人はひどく具合が悪い時が多く、他の客を観察する気もないし、傍目にもそんな有り様なので、他の客の方から近寄ることもなかった。
もっぱら、カウンターで、マスターと話したり、他の客が少ない時に、加奈が声をかけてくるくらいだった。
でも、この頃になると、何回か見たことのある客も視界に入るようになり、簡単な挨拶をする常連客もいるようになった。
「向こうに座っているあの客、前から加奈に熱心でね。結婚の話までしてるらしい。俺はとてもいい人だと思うけどね。でも今まで、あの子はあんたのことが気に入ってたからね。
でも、あんたが戻るなら――あの子も、前に進めるだろうよ」
向こうの席で、加奈とやり取りしているお客のほうを、マスターが見ながら言った。
そう言えば、その客を時々見かけていたな。
「そうだったのか」
と、隼人はどこか、他人事のように言った。
加奈は、隼人の引っ越しの手伝いもしてくれた。
と言っても、隼人の私物は、多くない。
マスターの店に寄る位で、ずっと残業をし続ける彼には、給料が貯まっていた。
自分で購入したストーブやラジオ、寝具、引き出し付き収納などは、マスターと加奈に貰ってもらうことにして、身の回りの物だけを持って行くことにした。
叔父に挨拶をしたあと、店の開店前の時間だったので、マスターと加奈が駅まで車で送ってくれた。
「また、こっちに来たら寄りな」
「うん、また会おう」
そう言って、加奈とマスターに手を振って、別れた。
S市での仕事に就いた隼人は、実家で暮らすのではなく、S市で暮らすことにした。
新しい環境と、復興の雑沓や、躍動のなかでの生活は、悪くなかった。
地方都市といっても、以前の郊外の町より、こちらの方が、はるかに大きい都会だ。
あれこれと、詮索されない新しい人間関係も気楽だった。
隼人は同僚に誘われて飲みに行くこともあり、気晴らしに付き合う相手もできていた。
接客業の女性達は心得ていて、こちらの事情に、深く踏み込むようなことはしない。
今は、それが気楽だ。
隼人はずっと苦しんできたが、表面的には、明るく振る舞えるようにもなってきていた。
そんなある日、たまたまS市の歓楽街を、週末の夜で歩いていたところ、ちょうど向こうから、女性の3人連れが歩いてきた。
なかなか個性的で華やかな婦人と、一緒に歩く若い娘二人で、何となく品があって、隼人もその方へ視線を投げた。
二人については知らないが、娘の一人はすぐにわかった。美夜だ。
紺色の学生のようなスーツ姿が、こういう場所ではかえって目立って、その清楚な容姿を引き立てている。
隼人が声をかけた時には、美夜も気付いていて、またびっくりしているようだ。
連れの婦人は、陸と美夜の叔母であること、もう一人の娘は美夜の友人だということだった。
3人で、カクテルの店に行ったのだという。
その店は、カクテルバーテンダーのオーナーが有名な老舗で、隼人も名前は聞いたことがある。
軽く挨拶をしたあと、夜の街の人の流れに押されるようにして、彼らは別れて行った。
隼人は中学生だった美夜も、カクテルバーに出かける年齢になったこと、こうして偶然、隣町で出くわしたこともあり、自分は故郷と昔の町に、少し辿り着いたのか……と思った。
その後、陸に連絡して近況を簡単に伝えると、後日陸からも連絡があって、二人は初めて、S市の居酒屋に行った。
陸は、隼人の悩みや状態を人伝に聞いていて、決して辛い記憶を呼び戻すようなことには触れなかった。
自分のことや、これまでのさくら茶舗のこと、進駐軍の人々との交流などを、語ってくれた。ベンさんのこと、ウィルが美夜に手紙を送ってきたことなど。
「隼人、美夜だって、見た目よりしっかりしてるし、大人だから、隼人のことはわかっているよ。うちの家族だってそうだ。隼人に会いたいと思ってる」
陸が言った。
隼人がS市に戻って年が変わり、半年くらい経った時のことだった。
加奈から連絡があった。
マスターに、聞いたのだろう。
隼人は、マスター宛に、礼状を出していた。
加奈は、知人と共に、この方面に旅行に来ること、帰りに自分だけ寄り道してメープルホテルに泊まるので、一緒に飲みたいというものだった。
港町のバーで、加奈と久しぶりに隼人はカウンターに座っていた。
そこは岸壁近くの、元倉庫だった煉瓦の建物を改装したバーで、夜の海面に、あたりの灯りが映り込み、キラキラと、波が動くたびに、光も揺れるのが見えた。
この倉庫群は、戦時中は、軍の物資のために接収されていたが、メープルホテルの経営者が本来持ち主だと聞いている。
「マスターや皆は元気?」
開口一番に、隼人は尋ねた。
「姉さんはね、店を辞めて呉服店で社員になったわ。呉服屋をやってるお客さんに、引き抜かれたの。代わりに、新しい女の子が二人入ってるわよ」
そう言えば、加奈の姉はいつも着物を着ていたな。よく似合っていた。
接遇も上手だし、そういうこともあるだろう。
「マスターは、変わらずよ」
そして言った。
「マスターも私も、隼人が居なくなって寂しいと思ってる」
隼人は笑って言った。
「あの時は、ずいぶん迷惑をかけた。みんなのおかげで、今はかなり楽になってる」
「そうね、初めて店に来た頃は、笑った顔なんて見たことなかった。
最初から、思い詰めてる顔色で、今と全然違う。」
その店では、ジャズの生演奏があって、心地よく音が流れている。
「それで、今回はどこをまわってきた?」
「……まあ、色々よ。今日は、別行動してるから、知らないし」
加奈が言葉を濁しているように感じる。
「で、明日帰るのか?」
「ええ、まあ」
「久しぶりに会えて良かった。マスターにもよろしく。また、そっちに行くことがあれば寄るよ。じゃあ、そろそろ送って行こう」
と言った。
「ねえ隼人……今晩一緒に泊まって」
隼人は、グラスを置いて加奈を見た。
「結婚するんじゃないのか?」
加奈は、グラスを置いて言った。
「多分ね。マスターから聞いたの?」
そして言った。
「そう……最後だからよ。」
隼人は小さく首を振った。
加奈にとっても自分にとっても、過去に思えた。
「加奈、色々ありがとう。送っていく」
「隼人……」
「でも明日、寄るよ。帰る前に、一緒に昼飯でも食べよう」
加奈は、煙草の火を消して、立ち上がった。




