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土塀の町でわたしは兄の親友に恋をした。凍る国からの帰還兵はメープルホテルで出会う。  作者: レモン


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第26話  煙草の煙 1

働いているときは、救われた。


空襲に見舞われた神戸の中で、港湾にあって、爆撃を免れた叔父の会社兼工場は、建築資材を扱っているので、周囲の復興のために、昼夜を問わない忙しさだった。


復員して、故郷には帰らず、思い出したように叔父を訪ねた隼人に、叔父が仕事を手伝わないかとて言ってくれた時は、渡りに舟だった。


とても、あの静かな町に帰って、家族や旧友と穏やかに、再会を喜び合う気になど、永遠になれないような気がしていた。


知人にも誰にも会いたくない。


爆撃で破壊された瓦礫の町を見ても、自分の心と同じで、驚きもしない。


身体は、へとへとになるまで働いて疲れているはずなのに、夜眠れない。


目を閉じるのが嫌だ。静寂が嫌だ。記憶が嫌だ。


アルコールに頼って、何も考えられない状態で、残像を排してやっと目を閉じることができた。


そうして、また起きて、へとへとになるまで働く。


周りも、騒然としていたから、少々無茶苦茶な人間が居ても、誰も気に留めない。


会社の中の宿泊所で寝泊まりすることができた。


瓦礫の中、そういう場所があるだけでも、恵まれていると言える状況だ。


何ヶ月か経つうちに、道路も整備されたので、叔父の工場謙会社も少し郊外に

より大きく新設され、隼人はそちらで、管理を含めてまかされることになった。


叔父は、隼人が昼夜なく働き続けるので、心配になっていたようだ。

近くに家を借りてくれた。

家具も家財道具も付きだった。



隼人は郊外に移っても、なるべく遅くまで働くようにしていたが、叔父が心配して、仕事が早く終わるようにさせた分、以前より長くなった夜の時間が、記憶を呼び覚まし、逆に苦しめられることが増えてきた。


近郊の街には、商店街があり、一歩路地に入ると、バーも並んでいる。


いくつかのバーの中で、重たく感じる茶色のドアと、ステンドグラスのような明かり窓のある店の前まで来た。仄かな灯りが漏れているだけなので、閉まっているのかと思ったが、重そうなドアを押すと開いたので、中に入った。


照明も薄暗い中に、マスターらしき男性が、ひとりカウンターの中に居る。


そのほか、誰も居ない。


「いいだろうか?」

と言って、立っている隼人を、マスターは驚いたようにじっと見た。

そして


「今日はもともと休みで、誰もいませんが。良ければ」


と言った。


隼人は、カウンターに座って、何杯かグラスを空けた。


マスターは、離れて何か作業をしていたが、やってきて、鍋を火にかけ、温めたおでんの入った皿を、隼人の方へさしだして言った。


「良かったらお客さんもどうぞ」

「どうも」


それから他愛ないことを少し話し、杯を重ねて、隼人は店を出た。


「またぜひ、どうぞ」

マスターが言った。



仕事が早く終わるときは、夜の長さがこたえる。


思い出したくない残像が、脳裏に浮かび上がってくるのだ。


そんなときは、その茶色のドアのあるバーへ立ち寄った。


先日は、マスター1人かと思ったが、普段はそれなりにお客も多く、店には、ホステスらしい女性も2人いた。


ひとりは、和服を着て、髪を結い上げている女性で、向こうのグループで座っている客達のところに居て話をしている。


もう一人は、ノースリーブのワンピースを着て、茶色の長い巻き髪の女性だ。

彼女も、別の客達といた。


隼人は、先日のようにカウンターに座っていた。


「お兄さん、いい男なのに、何かしんどそうね、大丈夫?」


気がつくと、茶色の巻き髪の女性が隼人に話しかけてきた。


「しんどいから、飲んでる」


「あなた、初めてよね」


彼女はグラスを渡しながら聞いてきた。


「いや、先日来た」


「そう、仕事場はここから近いの?」


「職場も家も、ここには、すぐ歩いて来られるところにある」


「便利が良くていいわね」


「良くない。前の方が良かった。昼も夜も働いてればいいから、ましだった」


「何か悩みがあるのね。まあ、みんなあるけど。

私たちも、前は市内の店に勤めてたんだけど、空襲で、そこも家が焼かれてさ、親も死んでしまって。

マスターと知り合いだったから、姉と二人でこの店に移ってきたのよ」


彼女は、向こうで他の客と話している、もう一人の女性を見た。


そう言えば、二人は何となく似ているので、姉妹という説明に、そうかと納得する。


今日も気分は最悪だ。


「え? 何? この人、ほんとに具合悪そう」


突っ伏してしまった隼人を見て、彼女が慌てて言った。


隼人が気付いた時は、店はすでに閉店になっていた。


隼人が、気付いて勘定を払って、出ようとすると、マスターが、戸締りをしながら、


「家はすぐ近くだって?だったら、途中で降りたらいいよ」


と言って、二人の女性従業員とともに、車に載せてくれた。


隼人を家の前で降ろすと、


「ほんと、近くなんだな」


と、マスターたちは言っていた。


そして、皆は隼人が家に入るのを見届けて


「おやすみ」


「お大事に」


と言って、走り去って行った。


思えば、その頃位までが最低だったかもしれない。


次に、店に訪れたとき、


「何でも話すといい。少しずつ。何聞いても、平気だから、気にしなくていい。こんな時代に生きてきたんだから」


マスターにそう促され、隼人は時々行くたびに、話すようになった。


マスターは、何も言わず、手作業をしながら、カウンターの内側で、ただ、黙って聴いてくれた。


「戦争の傷は、あんた1人のせいじゃないから」


マスターはそう言った。


ホステスとして勤めている加奈も、煙草をくゆらしながら、時々聞いていた。


「姉さんと私だって、散々黒焦げの死体を見て来たわ。そんな簡単に忘れられるものじゃないわよ」


この人達は親切だけど、隼人の身内でも友人でもない。

自分は、ただ行きずりの客に過ぎない。無関係な人間の話だと、聞き流してくれればよい。


お互いに気が楽だ。

それが有り難かった。



ある夕方、玄関の呼び鈴が聞こえて、隼人が出てみると、加奈が、ウィスキーボトルと紙包みを持って立っていた。


訝しげな顔をする隼人に、


「今日は、店が休みでしょ。あなたの家で飲まない? 色々持ってきたし」


玄関の中に入れると、彼女はどんどん家に入ってきた。


「グラスはある?」


「ある。ビールもある」


茶の間のような部屋や、台所に入ってきた彼女は、周りを見回して言った。

「すごい、家具も食器も揃ってるじゃない」


「この家の持ち主が、そのまま置いているもので、必要ならそのまま使ってもいいということなんだ」


もともと叔父の知人で、息子の家へ行く家主は、処分も面倒なので、家財をそのまま置かせておけるならば、貸したいと言ったそうだ。


家具や道具は、そのまま使ってもらえばよいということだった。


4部屋の内、隼人は、入り口寄りの2部屋しか使っていない。


不要なものは、奥の部屋に置いてある。


加奈は、物珍しそうに、部屋を眺めていた。


台所にも、古いが、調理用具がひととおり揃っているのも見ていた。


そして、


「私もここで暮らそうかなぁ」


と言った。


隼人がグラスや食器を持ってくると、彼女は早速持ってきたものを並べた。


二人は酒を酌み交わし、煙草をくゆらせながら、ゆっくりと時を過ごした。


誰かがそばに居て、こうした夜に向かう時間を共に過ごしてくれることは、気が紛れるので、正直有り難かった。


すっかり酔いがまわった頃、


「あなたは、先に眠りなさい。あなたが眠るまで、私が起きているから」


そう、彼女が言った。


「ありがとう」


夜の静寂に潜んできて、自分を苦しめる残像を払うために、いつもはラジオを流しっぱなしで眠っていた。


その方が少しでも、多く睡眠が取れた。


しかし、今日は加奈が近くで、食器を片付ける音をさせたり、灰皿を動かしたり、適度な音量で流すラジオの音楽が入り混じった中で、慢性的な睡眠不足に、ぐったりとしていた隼人は、深い眠りに落ちていった。


翌朝は、久しぶりに快適な目覚めだった。


加奈は、座布団を枕に、押入れから適当に出してきたらしい、上掛けを被って、熟睡している。


加奈は、仕事が夜なので、朝はいつも眠っているのだろう。


隼人は、台所で、ご飯を炊き、味噌汁を作った。


音を立てていても、加奈はピクリともせず、眠っている。


先に食事を済ませ、支度をし、加奈にはよく眠れた礼と、朝食のこと、裏口から出てもらうように書き置きをして、会社に行った。


その日は、かなり遅くなって戻ってくると、

卓上には、


(よく眠れて良かったわね。また、休みの日に来るね。加奈)


と、隼人の書き置きの下に書かれてあった。


それから、加奈は、店が休みの日には、よく来るようになった。


姉が作ったおでんだとか、お客にもらったお土産だとか、持参してくれる。


「あたしは、隼人より三つ上ね」


加奈は言った。


「さあ、今日もお姉さんが見守ってあげるから、先にお休み」


加奈は、横になっている隼人を仰向けにさせて、自分の顔を近づけた。


彼女は、隼人に口づけをした。


隼人は、加奈を好きでも嫌いでもなかった。


しかしそれは、眠る夜のための、行為のひとつではあった。


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