始まり
文月は興味深そうにこちらを見つめる理華の瞳に子供の頃を思い出す。
こんな風に近居の子供達に本を読んであげていたのだ。
文月は裕福ではなかったが武家で、東京や海外で働く役人になった親族も多くて様々な本が送られてきた。
そのほとんどは、読み終わった本のお下がりだったが、娯楽の飢えている稲子の子供には宝物であり、そこにはホームズなどの英語の本も含まれていたので自然と外国語も理解できるようになった。
夢見るような乙女を前に、少女雑誌に夢見ていた小さな頃の姪を思い出す。
少しだけロマンチックな気持ちになりながら、正月にリモン先生に特訓してもらった西洋の挨拶をモーニングを着て姪にしたやったことを思い出した。
紋付ではなくモーニングを着ている岳に親は呆れながらも、姪の喜びように顔を綻ばしていた。
文月は久しぶりにし筋を伸ばしてその上品な挨拶をした。
人生を賭けた仕事だと思うと緊張するが、ごっこ遊びだと思えば慣れた者である。なんだかんだと言っても下の妹よりも理華は年下なのだ。
「では、これから、私が見聞きした事件の報告を始めたいともいます。
私があの、高名な名探偵、明智小五郎先生から伺ったものですから間違いはありません。
あの、奇妙な未解決事件のその後の顛末でございます。」
文月の前置きを合図にバイオリンの音色が流れてくる。
先ほどとは打って変わったような、春の微風のように穏やかで文月のセリフを遮るものではない。
一瞬、驚いて、天狼星を盗み見る。そして、この男の様子から文月に協力しているのではなく、理華がこの話に聞き入っているから合わせているのだと察した。
上手い話をしさえすれば、敵意のある人物すら味方に出来るものである。
なんとなく、父の合戦の講釈を思い出しながら物語に集中する。
明智小五郎がどんな人物かは分からないが、今回は向井をそれに当てはめる。
小生姿の中年の少し調子のいい雰囲気の人物である。
「最近、連載された『悪霊』が、現在、一時休載されているのですが、これにはわけがありまして、実は、この物語のヒントされた『赤い綴り』はじつざしているのです。そして、その綴りをめぐって問題があり、ここで明智先生が呼ばれたのだそうです。」
文月は本当にあったことのように話した。この部分は文月の全くのアドリブである。でも、乱歩先生が書けないからと逃げたから我らが探偵、向井が呼ばれ、こんな奇妙なことに文月が巻き込まれていることには変わりない。
理華はまるで高価な宝飾品でも品定めするように真剣な眼差して文月を見つめ、そして、天狼星を一瞥してからとても興味があるというような顔で
「続けて頂戴。」
と、短い命令をする。
この短いセリフに、理華が本当に『俳優』であるのだと文月は感じた。実際、このセリフは天狼星、文月に先の行動をする原動力になったのだから。




