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誰かが言った。バイオリンは最も人間の声に近しい楽器だと。
そうだとしたら、これはオペラ歌手だな。
文月は雲を噛むように高級パンを口に入れ、そして、西洋陶器風の小どんぶりに並々と注がれたカフェオレを眺める。
これは、回して茶碗の風景を楽しんだりはしなくていいんだよな?
理華を盗み見ながら食事に気を使い、そして、高らかに自らの音色を自慢する天狼星のヴァイオリンを耳にする。
彼の演奏するサンサースの『死の舞踏』は冬の荒野の吹雪のように自己主張しながら部屋に広がる。この中で文月はあらすじを発表するのだ。
これはある意味、いじめではないだろうか?
少し心が萎むが、そんなことも言っていられない。ここでなんとかしないとさっちゃんとの祝言があげられない。
少し前は、中途採用も軌道に乗って新居と祝言の計画を立てていたというのに、ここにきて失業と借金を心配しないといけないなんて。
米、食いたいな。
パンの甘味が文月の心を萎えさせる。
何か、おとぎの世界に巻き込まれた気がした。そして、思う。
向井さんはこの状況をどうしていたのだろう?と。
向井さんなら、きっと、ヘラりと笑ってこういうに違いない。
「オペラ?それがどうした?浅草の客引きはチンドンやりながら客を集めるんだぞ。その上、商売敵より目立たないといけないんだ。それに比べりゃ、上流階級の静かな環境で歌うオペラなんて大したことはないな。」
ため息をつく。
仕方ない。そうだ。このままでは本当に、明日は自分がサンドイッチマンとして街を歩き、大声を出さないといけなくなるかもしれないのだから。
文月は腹を決めた。そして、パンを食べ切り、どんぶりのカフェオレを飲み干した。そのワイルドな様子に理華が驚いているのも気がついてなかった。
ここを浅草だと思えばいいのだ。なんにしろ、これからの出し物の宣伝には違いない。
そう考えると少し元気になった。成功しても、失敗しても、この経験は生かされる。
曲が終わる頃、文月は優雅に立ち上がり、そして、理華に一礼をして息を大きく吸い込んだ。で、発声練習をする。
学生時代、ドイツ人の工学技師の先生と仲良くしていたことがある。
その先生はベートーヴェンの『第九』を歌うのが好きだった。
何でも、これは平和の歌なのだそうだ。そして、夜中に作業がつづいたりすると、眠気を散らすためとか言いながら生徒にも歌わせた。
『タケシ、辛いこともたくさんある。戦争に負けたら生活は悲惨だ。でも、平和が訪れる。だから、辛くても未来を見て高らかに歌うんだよ。』
そう言って、なんだか本格的な発声練習をさせられた。
そう、文月だって、西洋の芸術がわからないわけではないのだ。
商売敵の音が大きいなら、それ以上に目立てばいいのである。
身振り手振りと面白い筋書きで。
演奏と物語の決定的な違いは言葉を発するということだ。
言葉には意味があり、その広がりは決してヴァイオリンの音量に引けを取らないのである。
一瞬の間をおいて文月は片膝をついて理華に西洋風の敬礼をする。
部屋が静寂を取り戻し、そして、理華が高貴に微笑み返す。
リモン先生は本当に伯爵だったのかもしれないな。
場の空気の代わり具合に文月は学生時代のドイツ人技師の言葉を思い出す。
『理系の美学が文系に劣るなんて嘘だ。ピアノを思い出せ、あの麗しい音を奏でるのは明らかに我々の扱う『はがね』の芸術なんだ。』
そう言ってなんだかよくわからない西洋のしきたりを教えてくれたな。
ノーベル賞を取った時のためにとかなんとか言いながら。
リモン先生、僕、頑張ります。
白無垢のさっちゃんの横で、両親に挨拶をするその時のために。
息を静かに吸いながら穏やかに文月は理華に微笑んだ。そして、静かに語りかける。
「マイレディ。それでは私が聞き及んだ物語の顛末をここでお話しいましょう。
かの有名な明智小五郎氏から直々に聞いた内容ですから間違いはないと思います。」
文月の穏やかな声が響いて、天狼星が静かにヴァイオリンを構える。そして、先ほどと打って変わった穏やかな音色で『死の舞踏』を演奏し出した。




