天狼星
少しの沈黙の後に理華は口を開いた。
「ふふ、楽しくなりましたわ。そうだ、天狼星アナタ、ヴァイオリンが演奏できましたね?文月さんの説明をアナタの演奏で花を添えてくれるかしら?」
は?
文月はあっけに取られた。ただのシナリオのあらすじの説明に、ヴァイオリンの演奏をつけるとか、それも、芸人ではなく、文月の説明に、である。
「あ、あのぅ。それ、僕の説明でやるのですよね??」
文月は混乱しながら一応の説明を理華に求めた。もしかしたら、自分の代わりに説明する人が登場するのを期待して。
「もちろんですわ。推理小説の初めのお話は特別ですもの。ああ、犯人は最後まで言わないでくださいね。私、ここから先は明智小五郎として全てを知って世界を見ることになりますもの。謎解きを楽しめるのはここだけですもの。」
理華は夢見るように両手を胸のところで組んだ。
文月はその姿に少女雑誌を真似て同じ仕草をする小さな妹の事を思い出した。
お嬢様は本当にこんな仕草をするんだ。
何か、新たな発見でもしたようにそんな事を思い、天狼星と呼ばれた男性給仕がヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出すのを見て正気にかえる。
奴らは本気だ。僕はどうしたらいいのだろう?
天狼星は西洋名シリウスと言われる星の名前である。これが本名であるわけもない。妹が夢見心地で呼んでいた少女小説のやんごとなき世界の人達のように『あだ名』をつけて呼んでいるのだろう。そんな小説のような事が現実であるなんて。
なんて、感動している場合ではない。すでに天狼星は音の調整を始め出す。
「あ、あのぅ、ぼ、僕は、どうしたら…」
文月はか細くも勇気を出してきく。理華は運ばれてきたカフェオレと丸いパンを見て、少し考えてからこういった。
「あら、失礼しました。『腹が減っては戦は出来ぬ。』でしたわね。どうぞ、召し上がって。天狼星の曲でも聴きながら。お話はその後、楽しみにしていますわ。」
理華は文月に着席を促した。その様子を天狼星と呼ばれた男は少し冷たげに見つめている。どうも良くは思われていないようだ。
「は、はあ。」
と、着席してまずは腹を満たすことに文月は決めた。どちらにしても、ここからの話を誰かに任せるわけにはいかない。これはあの江戸川乱歩の作品を連載途中で第三者が作り替えるという暴挙なのだから。
その行為は決して褒められるものではない。
「それで、天狼星、アナタ、何を演奏するのかしら?」
理華の言葉に天狼星は穏やかに理華を見る。理華を見るめる天狼星の瞳に理華を慕う温かい慈愛の情が滲んでいて文月を不安にさせる。失敗はできない。最高とはいかなくても、いい感じにまとめないと。
天狼星は筋肉質で西洋人と並んでも見劣りしない8尺はありそうな大男である。
否、どちらかというと朝倉家の家臣、真柄直隆とでも称した方がいいのかもしれない。こちらは本田忠勝ではないというのに、一騎打ちでもさせられそうな威圧感が伝わる。こんな大男と戦わされた忠勝に同情しながら今は自分の運命の行方を憂う。
それにしても伴奏がついてあらすじの発表をするというのは西洋ではよくある事なのだろうか?それとも、歌劇の約束事なのか。不安を抱えながら食べる丸パンは、雲のように軽く、食べた気はしなかった。
そんな文月の嘆きを知らず、天狼星はヴァイオリンを構える。
元は座って演奏する、琵琶のような弦楽器から敵襲に備えて立ったまま演奏できるように進化したと言われるヴァイオリンを天狼星が構えると、演奏家というより、武闘家の方が相応しい感じがした。
そして、準備が全て整うと、天狼星は穏やかに理華にいった。
「死後の世界がテーマなのですから、サンサースの『死の舞踏』はどうでしょう?」
お伺いをするように天狼星は理華を見た。理華は少し考えてから
「よろしくてよ。お願いするわ。」
といった。




