緊張
「失礼します。文月様をお連れしました。」
女中頭の絹代が事務的に言った。が、その言葉を発する為に、彼女の背中に一瞬の緊張が走り、次に理華の姿に言葉をうしない、そこから、持ち直して少し掠れる声を持ち直すまで1秒。その瞬間を文月は興味深く観察していた。
絹代はただの使用人ではない。西宮の親戚筋で学も地位もある女性である。そんな真のしっかりした年配の女性を一瞬とはいえ思考を止めてしまう、それが理華という人物である。
「ご苦労でした。お下がりなさい。」
理華の涼やかな声がその場の空気に波紋を投げる。
絹代は頭を持ち上げ、一瞬、余韻を味わい、そして、何事もなかったかのように上品に一礼をして部屋を出てゆく。
そして、文月は広い空間に取り残された。
「まあ、今朝は素敵な出立ちですのね?さあ、こちらに来て原稿をお見せになって。」
理華の声のトーンが少し甘みを増して、文月は緊張する。
これで大丈夫だろうか?ここで不評を買ってしまったら、さっちゃんとの結婚はどうなるのだろう?
この不景気で、やっと見つけた仕事だというのに。
足が、うまく前に出せなくなる。が、その気持ちを励まして文月は理華の方へと歩み寄る。
ここが分水嶺。
舵をしっかりと操作して、幸せな未来へと進まなくてはいけないのだ。
「すいません。乱筆で読みづらいかもしれませんが。」
テーブルに原稿を置いて、手入れの行き届いた自分の手に、ハルの気持ちを思い出し勇気をもらう。
理華はシンプルな藍色のAラインのワンピースを着ていた。が、そのシンプルさが、逆に理華本来の美しさを滲ませている。
「かまいませんわ。」
と、細く長い白い手を原稿に伸ばしながら理華はいう。そして、少し物思いをしてから文月にこう提案した。
「まあ、おかけ下さい。すぐに朝食が参りますわ。待つ間、文月さんの口からあらすじをお聞かせ頂けないかしら?」
理華は耳元の髪を耳にかける。短い髪を濃紺の絹のヘアーバンドでまとめた上品で活発な感じのする髪型に文月の気がゆく。見事な菖蒲の刺繍とビーズのついた華やかなヘアーバンドが、西洋の映画で見たお姫様を思い出させた。
「はい。」
少し見入って、慌てて文月がそれだけ言うと近くの椅子に着席してゆっくりと、長く、息を吐いた。
ああ、なんて可憐でお姫様のような女性なんだろう?
文月はハルの土産話が出来たと思った。ついでに、姪っ子たちにこの話をしたら、どんなに喜ぶだろう?
雑誌『夢・少女』の絵師 中野 純 の絵が本から飛び出したような、大きな瞳の快活な少女のような乙女。
ああ、しかし、理華は20歳を超えていて、その上、あの夜の、明智小五郎なのである。
西宮理華は少女歌劇のトップスターで、現在は役者と実業家をしていた。
女が男に化けるなんて不可能だと思っていた。
そんなものは少女歌劇や創作の世界のことなのだと。
しかし、推理小説で名探偵がいうように、人というのは先入観に騙されるのだ。
薄暗い喫茶店やバーで自分より身長の高いスーツ姿のきりりとした人物を見たら、誰でも間違ってしまうものなのだ。
まあ、あの夜に明智小五郎に群がっていた男たちは知っていたのかもしれない。明智の正体を。
文月はこの現実離れした世界で、自分が江戸川乱歩の物語の世界に入り込んだような不思議な気持ちになる。が、そんな気持ちに混乱している場合ではない。
ここからが本番なのである。
今、目の前にいる、この役者であり、スポンサーに自分の初の台本を買ってもらわないといけない。
ついでに、出版社の上役の人にこれからも雇ってもらえるようにお願いしてもらわなくてはいけない。
この忙しい時に、無断欠勤をしたことになっているのだから、ここでなんとか、なんとかしなくてはいけないのである。




