モーニング
西洋では昼飯とともにビジネスの話をしたりすることもあるそうだが、朝食というのは日本だけではなく、西洋人でもビジネスの話はしたくないに違いない。と、文月は思う。
が、遅い朝食、桃源郷のような洋館での遅いモーニングとなると、それ程の違和感がないものだと考え直したりもする。
ハルは素晴らしく、完璧に文月を西洋紳士に仕立ててくれた。
心配していたマニュキュアは、上品に仕上がり、その指で原稿を手にすると、確かに指作というのは人に説明する時、注目されるところで、美しく仕上がっていると、原稿の方も品のある品に見えるものだと感心した。
ハルは芸術家が彫刻の仕上がりを吟味するように文月をみて、それから、花が綻ぶように安心した笑顔で文月に「いってらっしゃい」と文月を送ってくれた。
理華様の食事は、南側のイギリスの田舎風の庭園が見える部屋で撮られるとのことだった。
文月は自分の、というか向かいの使っていた東側の部屋からゆっくりと歩いて理華の元に向かう。
当主のプライベートな空間には、特別の使用人しか入れないので、まだ日の浅いハルはついては来られない。ハルはそれをとても残念そうに何度も土産話を文月にねだった。
文月を案内するのは年配の神経質そうな痩せた女中頭で、イギリス風の茶色のロングワンピースを品よく着こなしている。
文月はその後ろ姿を見ながら、窓から入る朝の爽やかな日の光を浴びていた。
それは、正常な神経の時なら穏やかで美しい光景に思えたと思う。が、半徹夜状態で2日を乗り越えた後では激しく体に刺さるような倦怠感に襲われる。
薄化粧をしてもらって、正解だったかもしれない。
疲れた文月の顔を熱い蒸しタオルでほぐして、徹夜あけのボロボロの顔をなんとか見られる様にしてくれたことにこの時、やっと感謝できる気がした。
男が化粧など、と、抵抗はしてみたが、朝の爽やかな日の光と、美しい西洋の屋敷を歩いていると、自分の違和感が痛く感じる。それでも、その先を歩いて行く勇気が湧いて来るのは、早くから起きて自分の身支度のために心を尽くしてくれた(勿論、興味本位な気持ちもあるんだろうが)ハルの気合いが身を引き締めてくれているからだと思う。
何で、こんなことになったのか?
文月は、これまでの2日間を踏み締めるように思い出して行く。
編集長から、逃げてしまった乱歩先生の代わりに続きを考える命令が出て、それの打ち合わせとアドバイスに出版社の元オカルト雑誌の編集長をしていた向井と喫茶店で会い、そこから、明智小五郎が登場して…
明智小五郎…そんな者がこの世にいるわけないのに、その美しい男に見惚れてしまい、あれよあれよと外国人専用の秘密クラブに連れてゆかれ、向井と話あっている間に酒に酔って寝てしまい、そして、起きた時には、そこでの飲み食いの法外な請求をされ、困惑していたところを明智に肩代わりしてもらい、消えた向かいの為に『悪霊』の歌劇のシナリオを書くことになったのである。
そう、文月の窮地を救ったのは稀代の名探偵ではなく、役者だったのだ。
「それでは、こちらからお入りください。」
女中頭は厳しい目で一瞬、文月を見、ポケットチーフの極わずかな乱れをなおすと、教頭先生の様に文月の姿に納得して、品よくノックを2回して観音開きのドアを開けた。
開かれた扉の向こうは、異世界だった…
姪に買ってやった少女雑誌の扉絵に迷い込んだような、不安を覚えるような美しい世界。
薄桃色の西洋漆喰で装飾された壁、大きな油絵で描かれた竜宮城の華やかな絵画。
10畳ほどの部屋ではあるが、天井までの高さがあり、閉塞感はない。寧ろ、広く感じる。
そこに丸テーブルがフランス窓の外に置かれていて、リネンの天蓋が程よく日の光を穏やかにテーブルの横に座る人物を照らしている。
青紫の菖蒲のようだ。
凛と座る西宮理華の姿を見て文月はそう思った。




