第二話 王太子賞、獲るといい
シュヴァルツ渓谷の冬は、噂以上に厳しかった。
馬車を降りた私とミレーユを迎えたのは、凍った水路と咳の音。
村では冬になると上流の水路が凍りつき、人々は雪解け水を溜めた古い貯水槽の水を使う。
その貯水槽が汚れていて、毎年冬の終わりに熱病が流行る。
子どもと老人が、毎年何人か死ぬ。
「お嬢様方が来るような場所じゃありませんよ」
村長は恐縮しきりだったが、私は厚手の外套の裾を泥まみれにしながら、三日かけて水路を上流まで歩いた。
ミレーユは村の記録簿を借りて、過去二十年の死者数と気温と降雪量を照らし合わせた。
四日目、貯水槽の底を覗き込もうとして足を滑らせた。
「きゃっ」
「危ない」
腕を掴まれた。
振り向くと、粗末な外套を着た青年が立っていた。
年は自分と同じくらい。黒髪に、灰がかった青い瞳。手には桶を提げている。
「あ……ありがとうございます」
「侯爵令嬢が貯水槽の底に落ちて凍死したとあっては、笑い話にもならない」
「あら、私をご存じなんですか?」
「村じゅうの噂だ。泥だらけで水路を歩く貴族の娘がいると」
青年はテオと名乗った。
王都から来た商家の使いで、物資の輸送路を見に来たのだという。
それから五日間、テオはよく私たちの調査に付き合った。
桶を運び、村人との間を取り持ち、日が暮れれば納屋の焚き火のそばで議論に加わった。
彼は驚くほど数字に強く、王都の予算制度に詳しかった。
「凍らない水路を新しく引くのは、金がかかりすぎる。王都の連中はまずそれを言う。だから毎年、この案は握りつぶされてきた」
「ええ。ですから、水路は引きません」
膝の上のメモ帳を開く。
「貯水槽を作り直すのです。深さを浅く、数を増やして。凍結する層と使用する層を分ける。工事は夏に村人自身が行い、王家は資材と、その間の食糧だけを出す。費用は新水路の七分の一。……ミレーユ様の計算では、六年で疫病による労働力損失の減少分が費用を上回ります」
「採算は取れるのか?」
「その後は緩急的に機能します。国庫にとっては短い年月でしょう?」
テオはしばらく私のメモ帳を見ていた。
「……なぜ、そこまでする」
「え?」
「君は侯爵令嬢だ。文書館の写本を引き写して、それらしい案を書けば単位は貰える。誰も咎めない。なのに、なぜ泥の中を歩く」
少し考えて、笑った。
「泥の中を歩かなければ、あの子が咳をしていることに気づかないからです」
納屋の隅で、村長の孫娘が毛布にくるまって眠っている。
冬の初めから熱が下がらないのだと聞いた。
「机の上では、あの子は数字の一部です。でも、名前があります。ロッテといいます。……名前を知ってしまったら、もう七分の一の費用の話は、他人事にはできませんもの」
テオは何も言わずに、焚き火に薪を一本足した。
王都に帰る朝、彼は言った。
「王太子賞、獲るといい」
「あら、商家の方が賞のことをご存じですの」
「……噂は、どこにでも流れる」
馬車が動き出してから、ミレーユがぽつりと言った。
「リゼット様。あの方、桶の持ち方が下手すぎましたわ」
「ええ。それに、手も荒れていませんでしたわね」
二人で顔を見合わせ、それ以上は何も言わなかった。
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