暗雲
一人の男が廊下を歩く。
孤独な狼を思わせるような男だった。肩に一つ、大きな袋を背負っている。
人手が足りていないのか、廊下の隅には埃が積もっている。
彼は一番奥の扉の前に立つと、ノックもせずに中へ入った。
「アズワット」
男の呼びかけに返事はない。
書類が山積みの机に向かい、少し項垂れるようにして、嫌われものの円卓の騎士アズワット・ツェルンは椅子に背を預けていた。
男は少しぎょっとした顔でそれを凝視する。
肩が小さく揺れている。ただ居眠りをしているだけだと気づいた男は、呆れと安心混じりの溜息をつくと、彼の頭を力強く小突いた。
「おい、起きろ」
びくり、とその目を開いたアズワットは、伸びをしながら振り返る。
「おや、どうも」
「とうとう死んだかと思ったぞ。心臓に悪くて敵わん」
「驚かされたのはこっちなんですけど……」
長い赤髪を結い直し、アズワットは男へ向き直る。男は先程まで肩にかけていた革袋をひょいと投げて寄越すと、淡々と告げた。
「そら、盗賊十人。きっちり取ってきた」
「おや……」
恐る恐る中を覗こうと袋の口を緩めると、それだけで血生臭い香りが漏れ出してくる。アズワットは中身を確かめずに口を縛り直した。
「いちいち持ち帰らなくていいんですよ」
「仕事を果たした証拠は必要だろう」
それで、と男は袋を担ぎ直して言う。
「次はどうする」
アズワットは引き出しを開けた。仮面舞踏会の招待状の下から取り出したのは、何枚かの紙束。
「舞台は仮面舞踏会、獲物は──天馬狩りをして頂きたく」
男が渡されたのは舞踏会の会場の地図、当日の警備案、参加者名簿。
「天馬…………なるほどな」
「まあ、駄目そうであれば無理はせずに」
「問題ない。今は亡きアルトドルフ家の名にかけて、主人に獲物を持って帰ろう」
男はそう言い残して踵を返す。
困ったように眉を下げると、アズワットはその背中に向かって叫んだ。
「だから持ち帰らなくていいんですってば!」
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王城の一角、大臣たちのために作られた執務室。そこで機嫌良く鼻歌を歌っているのは、ウェールツディット連合王国外務大臣のクアルロン・シャーリー三等爵である。
小太りな身体の割には軽快なステップを踏んでみたり、鏡の前でその明るい金髪を撫でつけてみたりと忙しない。
「随分と楽しそうですね、大臣。仮面舞踏会には奥様とご出席で?」
そうにこやかに尋ねたロベルトの手には、あまりにも分厚い書類。ドサリと音を立てて置かれたそれに、クアルロンはあからさまに調子を下げた。
「普段から妻には苦労をかけてばかりだからな。丁度いい息抜きになればと思っていたが……『あなたと三曲は踊りたいわね、ダイエットに』なんて言い出すんだ。死んでしまうわい」
「あはははは、愛されていらっしゃる」
わざとらしく書類を置き直され、渋々机に着いたクアルロンは、ペンで空に円を描いてロベルトに尋ね返す。
「そういうロベルト君はどうなのかね。パーヴェル君のように円卓の騎士と行くなんてつまらんことは言わんだろうね」
「一応、お誘いしている女性は。でも来てくれるかどうかは……」
「まだ返事がないのか? もう来週だぞ」
普段から思わせ振りなことばかりしているから信用がないんだ、と呆れた顔をするクアルロン。
「まあ今、有能な補佐官に結婚されてライン領に引っ込まれても困るんでね。潔く振られたまえよ」
「もっと仕事を増やしましょうか」
「ワハハ、分かりやすいな、ロベルト君は」
クアルロンは大口を開けて笑うと、スッと目を細めて言った。
「…………君さあ、最近なーんか裏で色々やってるよね?」
「それはもう、王国のためですよ」
「じゃあ何やってるか教えてよ」
「駄目です」
「ケチだなあ」
「大臣には負けます」
ハハハハハ、と声を重ねて笑う二人。ロベルトは署名済の紙束を纏めて小脇に抱えると、少し身を屈めて囁いた。
「好奇心はあなたの美徳だが……あまり妙な考えは起こすべきでないな、シャーリー三等爵」
「貴卿の邪魔を出来る人間など、どこにもおりませんよ。千里公」
「……その渾名、嫌いなんですよね」
ロベルトは心底つまらなそうにそう言うと、そのまま部屋を出ていった。クアルロンは太い指で自身の髪の毛を掻き上げる。
「実に分かりやすい! 若い、若いぞロベルト君! こりゃ本当にアズワット君の一人勝ちになるやもしれんな」
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踊るは子羊、生贄の群れ。
一度はぐれてしまったら、妖精たちの格好の餌。
どうか決して、目を逸らさないように。
さあ、舞踏会を始めよう。




