初秋の断片、籠の鳥
ウェールツディットから遥か東、黄金砂漠を越えた先には、果ての大国ツォがある。
大陸と島々を合わせたその広大な領地を治めているのは、地に上がった人魚の裔と伝えられる皇帝の一族。そして当代の帝には三十五人の男子がいた。
一番上の皇子は四十六歳の武麟白。
一番下の皇子は十歳の兎西花。
二人の間に他の兄弟がいて、全員母親が違った。女子も含めればもっと多い。七つにならねば正式な皇子と認められないので、その前に死んだ者を入れるとさらに多い。優れた者もいれば、愚かな者もいたし、苛烈な者も温厚な者もいた。
長兄の麟白はどちらとも前者であった。
文武両道博学多才、若くして父の執務を手伝い、十五歳での初陣で手柄を立てた。その一方で、悪い噂は常に絶えず、捕虜を虐殺しただとか、自身の立場を脅かしかねない弟たちを暗殺しているのではないかという話さえあった。
事実、西花が七つになる頃には、三十五人の皇子は十九人にその数を減らしていた。
西花の母親はすっかり怯えきっていた。
麟白の生家である武家よりも、兎家のほうが地位は高い。いつ麟白がその血筋を理由に西花を殺そうと思うか戦々恐々としていた。
我が子を次の帝になどとは欠片も思わないで、謙虚に、臆病に、ただ愛しい西花の無事を祈っていた。
目立たぬように、目立たぬように。
武道も学業も舞踊もさせない。才能を見つけない。外に出さない。着飾らせない。
好奇心に負けた西花がこっそり書を読めば、病的に喚き散らして破り捨てた。
気の毒に思った家臣がこっそり剣を教えれば、家臣の手首を切り落として追い出した。
この頃の西花といえば、笑いもしない、怒りもしない、人形のように日がな一日座っているばかり。
それでも今日まで西花の心が壊れることなくいられたのは、皮肉にも麟白のおかげだった。
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十歳のある日、麟白が兎家を訪ねてきた。用向きは父帝に命ぜられてのものであったが、ついでに末弟の顔を見たいので西花と会わせて欲しいと申し出た。
断るのも恐ろしいので、決して機嫌を損ねないようきつく言い含められて、西花は兄を迎えることになった。
親子ほども歳の離れたこの兄は、端正な顔をずっと険しくしていて何を思っているか図れない。西花が緊張して柄のない着物の袖を握り締めていると、麟白はぽつりと言った。
「棋盤はあるか」
持ってこさせます、とか細い声で答える。
怯えた顔の召使いが盤を置いて逃げ出すと、西花と麟白は静かに向かい合う形になった。
「やり方は知っているな」
「はい」
家臣たちが遊んでいるのをずっと眺めていたので、ルールは分かる。それきりお互い何も喋らず、駒を置く小気味よい音だけが聞こえる。
時間が経つにつれ、西花はどんどん前のめりになっていった。夢中になって盤面を見つめていた。
初めて自分の手で遊べていることが何よりも嬉しかった。
(ここを抑えたままで南天将を派手に動かして、空いた隙間に隠狙兵の導線を通せば…………ほら、勝った!)
思い通りに事が進み、破顔一笑する。
ずっとリズム良く打っていた麟白の手が止まる。西花の心臓が一際高く脈打った。
勝ってしまった。
母親の怖い顔を思い出して笑みが消える。思わずパッと兄を見上げると、意外なことに、麟白の口元は緩んでいた。
「子どもが相手の機嫌を気にするな。素直に喜んでいれば良い」
もう一戦、と言われて急いで駒を直す。緊張はまだ残っていたが、恐れる心はもう無かった。それから二人は何局も仕合い、麟白の勝ち越しで終わった。
たった一日の出来事であった。
西花は初めて、家族というものを知ったような感じがした。
その記憶が、西花にとっての陽だまりであった。
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それから一年ほど経って。
「盤上遊戯をいたしませんか」
異様な風采の男が庭から声をかけてくる。
確か、近頃兎家に逗留している、西方から南回りでやってきた男。名は蝋梅太とか言った筈である。
西方の蛮族とは思えぬ学識と気品である、と宴席を同じくした臣下たちが褒め称えていたが、西花はその笑みがどうにも好きになれなかった。
西花は不審そうな顔で男に応える。
「浅はかな、我を退屈した童子と思うてか」
「いえいえ。麟白様から『名手である』とお伺いしましたので、是非とも一戦交えたいと」
兄の名前を出されては断りきれず、渋々縁側に上げる。背は高く、うねった黒髪に紫の瞳。いかにも異国の顔立ちから、聞き慣れた言葉が紡がれるのが奇妙であった。
打ち始めながら、西花は男に問いかけた。
「お主、どうしてそのように我が国の言葉を話す? とつくにの商人は何度も見たが、誰もまともな口を利いたことはなかった」
男は少し考えてから駒を打つ。
「それは勿論、学んだからでございます」
「学んだ? 我が国にはお主の国の言葉も分かる通詞がいるというのに」
「通詞に頼れば楽ですが、公の会談以外には来てくれないでしょう。自分で好きなように話せれば、これこの通り誰かと仲良くなれます」
「仲良くはなっておらん」
一瞬で否定した西花。
その顔を見て、蝋梅太は何かを思い出したように黙り込んだ。
「どうした」
「いえ、下の弟を思い出したもので。丁度、西花様と同じくらいの年の子です」
「似ているのか」
すると男は大袈裟に口元に手を当てて、考える素振りを見せる。
「似てませんね。全く気の合わなさそうな性格ですし。ただ、私のことが苦手そうな表情に面影が」
弟とやらに同情した。
少し冗談めかして、「弟に会ってお主について尋ねてみたいものだが」と言うと、男はあっけらかんとして笑う。
「ではウェールツディットに来てみたらよいでしょう」
「いや、そんな目立つことは母上が許してはくれまい。我は所詮、籠の鳥よ」
それから打ち返そうとして手が止まる。いつの間にか西花は詰んでいた。
「おや、私の勝ちですか。存外あっけない」
「………………!?」
どこで違えたのかが分からない。必死に手を思い出していると、蝋梅太はするりと立ち上がって帰ろうとし始めた。
「待て、勝ち逃げする気か!?」
「あはははは。いやあ、麟白様にも親の欲目ならぬ兄の欲目があったとは。ま、年の離れた弟が可愛いのはよく知っています」
スタスタと庭を戻る男は、途中でくるりと振り返り、あの明るくて嫌な笑いでこう言った。
「私の本当の名前はロベルト・ラインと申します。負けを返上したくば是非我が国へ。あなたは籠を壊して外に飛び出るだけの力をお持ちですよ」
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あれから五年の月日が経って。
ロベルトは『気の合わなさそうな』と言っていたが。
あの何でもお見通しだとでも言うような男にも、分からないものはあるものだ、と西花は内心思っている。




