初夏の断片、紫と金
小屋をそっと抜け出して、あたりに人影がないことを確認してから走り出す。
ずっと身体に残っている疲労感が体を重くするが、期待に膨らむ胸が前へ前へと足を引っ張っていく。
ハリエット・ウェルテ、九歳。
彼女は、父親から課された特訓から逃げ出した。
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ハリエットの父親はライン家付きの下級騎士だった。数年前にはアーシュライエンの内乱の平定に参加し、自分のお陰で難攻不落の砦を幾つも落とせたんだ、と酔っ払っては何度も語り聞かせていた。娘であるハリエットからすると、そうだとはとても思えないぐらい、いい加減な親なのだが。
兄弟はおらず、母もない。森の中の猟師小屋で、父と二人暮らしのハリエット。父親はハリエットに騎士の教育を施した。読み書き計算、地理歴史、剣に弓、臣下の心構え。馬だけは流石に飼えなかったので代わりにロバに乗せられた。ちなみに特に意味はない。ロバと馬じゃ全然違うし。なんか違うな?と首を傾げる父の顔をハリエットは今でも忘れていない。
このように、教育としては貴族並の高水準だったが、なにぶん問題だったのはハリエットは女の子であるということだった。
ウェールツディットにおいて、正規の騎士資格は男性だけが必要とするものである。その下につく従騎士の中には女性もいるらしいが、装備の修繕専門だったり、馬の世話専門だったりと、戦闘能力は持っていない。
しかもハリエットは、別に騎士になりたいという訳でもなく、可愛いものやオシャレなものが好きで、白馬の王子様に憧れる、どこにでもよくいる女の子だった。
剣の素振りをしていても、何にも楽しくなんてない。ついでにいうと勉強も嫌。
「私も街に行きたい!! つれてけー!!」
「ダメ!!! お留守番してなさい!!!」
それが毎朝絶対ある会話。父親は毎日、街にあるライン騎士団の詰め所に通っていたのだが、ハリエットを一緒に連れて行ってはくれなかった。
どんなにゴネても、森から出るなの一点張り。
宥めすかすつもりなのか、時々お土産に服や玩具を買ってきてくれるが、父のセンスが死んでいるのでどれも心の琴線には響かない。折衝案で本をもらうようになってからは、挿絵を眺めては見知らぬ世界を夢見る日々。
課題として父の留守中にやらされる剣の自主練習はどんどんハードになって、しかもサボると何故かすぐにバレる。何故だ。
(でも、そんな毎日、もうやめにするもんね!!)
父親が朝に向かう方角は把握している。あっちへ真っ直ぐ森を抜ければ街に出られる筈なのだ。
連れて行ってくれないのなら、自分で行けばいいじゃない!
「家出だ家出ー! ヒャッホーイ!」
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「すごく……原っぱだ…………あと壁……」
森を出てすぐのところで立ち尽くす。
何もない平原の向こうに、そびえ立つ大きな壁。どんな本の挿絵でも見たことがない、知らない景色。道はどうやら壁の方へ続いているらしい。
「街っていうのはもっと、ゴチャゴチャしてるはずなんだけどなあ……」
混乱しつつも先へ進む。薄暗い森の中とは違って、とにかく眩しい。これが本で読んだあの、夏の陽射しというやつなんだ。
何もない、と言いつつも目を引くものはいっぱいで、ウサギが跳ねるのが見えたり、空に大きな鳥が舞っていたり、そんなものを興味津々に見ていると、少し遠くに人影が見えた。しゃがみこんでいる、小さな人影。
子どもだ。
一人、夢中になって花を集めている。
ハリエットは、自分と父以外の人間に会うのは初めてだった。そろりそろりと近寄って、その栗色のつむじを見下ろす。
「こ、こんにちは」
びくっとして顔を上げたその男の子は、深い紫の瞳でハリエットを見つめる。パチパチと瞬きしてから、知らない子どもに話しかけられたのだ、とようやく理解したらしく、笑顔になって、こう言った。
「こんにちは! 僕はマクシミリアンと言います。あなたのお名前は?」
こうして、少年と少女は巡り会った。
九年前、初夏のことである。




