第3話 深まる疑念をぶつけて
「んんっ……」
執務を終えた私は、ゆっくりと伸びをした。
既に日は落ちている。書類がかなり溜まっていたため、こんな時間までかかってしまった。
私は、ディゴール様の方に視線を向ける。彼は、涼しい顔をしていた。あまり疲れているようには見えない。
「……さて、もうこんな時間か。今日はこのまま、休むとするか」
「ええ、そうですね……」
「寝室がどこだったか、聞いてもいいか?」
「え? ディゴール様の寝室は、この執務室のすぐ隣ですが……」
「ほう?」
私の言葉に、ディゴール様は部屋の中にある戸に視線を向けた。
そこが、彼の寝室への入り口である。執務室とそこは、繋がっているのだ。
しかし、それを私に聞くとはどういうことなのだろうか。彼はとても優秀に執務を終えたというのに、どこか抜けている。
「……俺の寝室か。その言葉からは、ある種の意図が読み取れる。俺の寝室とは、お前の寝室ではないということか?」
「ええ、そうですが……」
「夫婦というものは、寝食をともにするものだろう?」
「そうではない夫婦もいるかと……」
ディゴール様の言葉に、私は反論する。実際の所、夫婦の関係というものは多岐に渡るものだ。そして少なくとも私とディゴール様は、そんな関係ではない。
それを何故、当の本人がわかっていないのだろうか。やはり、奇妙だ。私の中で、疑念がどんどんと積み重なっていく。
「ふむ……」
「……え?」
目の前にいる彼のことを考えていた私は、ディゴール様が近づいて来ることに気付かなかった。
それに気付いたのは、私の視線が上に向くことになったからだ。ディゴール様が、私の顎を引いたのだ。彼の赤い瞳が、私の目に入る。
「ディゴール様、何を……」
「なんだ? まるで生娘のような反応だな? 夫婦であるならば、この程度の戯れは普通だろう?」
「そんな馬鹿な、あなたはこれまで私に指一本……」
「何?」
ディゴール様は、自身の言葉に対する私の返答に目を丸めた。
彼のそういった反応は、初めてみる。いや、ディゴール様のその表情は見たことがない訳ではないけれど。
そう、彼だ。私は既に、わかっている。目の前にいるのが、ディゴール様ではないのだということを。
「……指一本、触れて来なかったか?」
「んっ……」
ディゴール様の顔をした彼は、ゆっくりと私の髪に手を伸ばしてきた。
彼は私の髪をすくように、そっと撫でてくる。ディゴール様としては、信じられないような行為だ。
「……や、やめてください」
「む……」
一瞬それを受け入れかけた私だったが、彼の手を振り払う。
ディゴール様に触れられることを許容するなんて、どうかしていた。少なくとも、気軽に髪を触れられていいはずはない。
私は、ディゴール様を睨みつける。ただ彼は、余裕そうだ。それを見ていると、こちらも毒気が抜けてしまう。
「……ディゴール様、あなたは本当にディゴール様なのですか?」
「ほう? その質問は、一体どういう意味だろうか」
「言葉通りの意味です」
そこで私は、ディゴール様に質問を投げかけてみた。
今日一日、彼と接してきたけれど、やはり何かがおかしいように思える。
まるで彼は、彼ではない。ディゴール様の姿をしているけれど、別の人のように思える。
それがどういうことなのかは、私自身もよくわかってはいない。だが、私にはどうにも、ディゴール様が本人であるとは思えないのだ。
「あなたは、ディゴール様ではないのではありませんか?」
「……何を言い出すかと思えば、この顔をよく見てみればいい。俺がディゴールであるということが、わかるはずだ」
「変装……あるいは、顔がよく似た別人ということも考えられるはずです」
ディゴール様の顔は、確かにいつも見ていた顔である。
しかしその表情の作り方は、いつもの彼とは違う。ことここにおいても、まだ余裕の笑みを浮かべる彼は、なんともディゴール様らしくない。
世の中には、似た顔の人間が三人はいるという。もしかしたら、今目の前にいるディゴール様は、別人なのではなかろうか。
「ふふっ……」
「ディゴール様?」
「はっはっはっ! なるほど、そう考えるのか……」
ディゴール様は、そこで声を出して笑い始めた。
彼は口の端を歪めて、笑う。その笑みは良いものとは言い難い。ただ彼は、とても楽しそうであった。
「それで、仮に俺がディゴールでなかったとして、お前はどうするつもりなのだ?」
「え?」
「俺を追い出すのか? この家から……」
「それは……」
ディゴール様からの質問に、私は何も言い返すことができなくなる。
私は今日一日のことを思い出す。彼の振る舞い、それは立派な貴族、立派な夫のものだった。その彼を追い出すということに、本当に意味があるのだろうか。
「そもそも、俺が本物ではないというならば、本物のディゴールは一体どこへ行ったのだろうな?」
「……」
「まあ、そんなことは良いだろう。そうだな、俺は寝室に戻るとしよう。お前はどうする?」
「……私も、自室に戻りますとも」
「なるほど、釣れないものだな」
ディゴール様は、私の横を通り過ぎた。
そんな彼を私は、引き留めようとは思わなかった。
私には、その理由がなかったのである。彼の言う通りだ。仮に本物のディゴール様が帰って来ないというならば、それは――。
「……」
帰って来ない夫よりも、今は目の前にいる彼の方が頼りになる。悲しいことに、それが私の現状であった。
とりあえず今は、様子を見るとしよう。今日は疲れた。私も自室に戻って、休むとしよう。




