八夜
今さら会ってどうするの?
昨夜から続く自問自答。
流石にあのあとは眠れず、デスクには本日三杯目のコーヒー。PCの画面が容赦なくチカチカして、目の奥が痛い。でも痛いのはブルーライトのせいじゃない。疲弊した頭の中で、何度も再生される、もしも、の世界。
急に連絡取れなくなってごめんね。元気にしてた?娘から聞いた。妻とは別れたよ。つらい思いをさせてごめん。やり直そう。愛してるよ。
何度も待ち合わせに使ったカフェ。別に特段おしゃれでもなんでもない、チェーン店のあの店。私の通勤経路的にも立地が良かったし、今思えば彼の、諸々の都合にも良い場所だったんだろう。いつも私は抹茶ラテを飲みながら、彼の仕事を終わるのを待っていた。
きっとそのあとに続く時間、彼の帰りをさらに待っている誰かがいただろうに。
キーボードを打つ手、左手を見る。思い返しても彼の指に指輪はなかった。
あぁ、何もかも嘘つきな人。
「どうしよう…保育園から電話来ちゃったの…あなたお迎え行けない…?」
午後のオフィスの喧騒に混じって、隣のデスクからひそひそ声が聞こえてくる。育休から戻ったばかりの主任が、小声で慌てて電話をしていた。
「無理よ、私だって明日の資料まだ作り終えていないのに…そんなこと言ったって…もう、わかったわよ、私が行くわよ。いいわよね、あなたは仕事が免罪符になって」
聞き耳を立てるつもりはなかったけれど、次第に震える声がなんだか痛々しかった。そしてため息と共に主任は電話を切る。
「あの、主任」
私は電話をしていた主任と同じくらい、小さな声を出した。
「資料、作るの手伝います。明日の会議用のですよね。前回の内容まとめて議題整理すればいいんですよね」
主任が気分を害さないか、少し心配だった。
「え、でも神田さん、今日入力の方は締切でしょう。そんな余裕あるの?残業になっちゃうじゃない」
「大丈夫です、予定はないですし。資料頂いて、少し共有頂ければ。念のため明日会議前に確認だけしてもらえれば大丈夫かと思います」
私は少しうつむきながら言う。あぁ、左の小指のネイルがいつの間にか剥がれている。いつから剥がれていたんだろう。
こうしてひとつずつ、ひとつずつ、会えない言い訳が降り積もっていく。
「ありがとう」
頭の上から注いだ主任の声は、優しかった。
「ごめんね、電話聞こえちゃってたのよね。気を遣わせてごめんなさい。ありがとう、本当に助かるわ」
私はうまく笑えない。一生懸命に口角をあげようと努力する。
「神田さんはいつも周りを見てるわよね。本当にありがとう」
「お子さんを…ご家族を優先してください」
絞り出すように、ようやく私はそれを口にする。
お門違いの罪滅ぼし。
主任の資料作りはなかなかに難航した。
普段主任がやっている仕事、と思うと、安易に妥協してはならない緊張感に囚われて、思ったよりも時間がかかってしまった。時刻は二十時三十八分。気づくとオフィスにはもう数名しか残っていない。若手が自分しかいないことに気づくと、妙に気まずくなってしまった。ここまでやれば大丈夫、そう慌てて言い聞かせて、私はそそくさと「お疲れ様でした」と言って、エレベーターまで走った。
外に出るともう月が出ていた。中途半端な、半月より少し細い月。半月と三日月のあいだ。名前なんてあるのだろうか。
残業中、何度も鳴った着信と通知。私は開くことができなかった。あの人からの、どんな言葉も、もう怖かった。そう、私は怖い。
カフェはここから五駅先。自宅とは逆方向。
今日一日フル稼働の頭。もう、抗う力なんて残っていない。
弱々しい足取りで電車に乗る。
月は笑っているのか、泣いているのか。
帰宅ラッシュの満員電車。他人に溢れる車内。誰も彼も遠い。
カフェは駅から五分。
この道のりを私は何度歩いただろう。そう、ここは幸福の道だった。
胸を弾ませ、軽い足取りで目的地へ向かう、あの日の私が、私を追い抜いていく。定時で片付けて、トイレでお化粧を直し、軽く香水を吹きかけて。その背中を、私は見つめている。
そう、それで入店したら、こうしてカウンターまでまっすぐ歩いて、そして、こう言うの。
「抹茶ラテ、ひとつ」
いつも座ってた奥の席。
ゆっくり腰掛けて、前を向く。
彼は、いない。
そう、この時間まで私を待ってくれる人だったなら、あんな結末にはならなかった。
嘘も本当も、もういらない。
抹茶ラテは甘くて苦い。
私だけが好きだったの。




