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午前2時のお釈迦さま

 私はベッドへ倒れ込む。


 部屋に入り、ガチャガチャと鍵をかけた後、靴を脱ぎ捨て、鞄を放り投げ、そのまま私は倒れ込んだ。真っ暗なままの部屋に、身体が、心が溶け出していく。

 今宵の布団は冷たかった。


 何故、行ったのだろう。もういないであろう時間に、わざと。

 確かめたかったのだろうか。とうに終わった、くだらない恋の価値を。

 期待でもしていたのだろうか。それでも本物だったと。

 

 通知に数字がついたまま、私は決して開きたくない。いつも手放さなかったスマホに、今夜は触れない。


 ―これでよかったのです。


 目を瞑ると君は寂しそうな顔でそう言う。細めた目の隙間から、透き通る瞳が覗く。見たこともない、愛しい君の顔。柔らかくて、あたたかな光。


 ―過ちの糸は、断ち切られました。


 私は、選べたのだろうか。


 ―間違った糸を、選びませんでした。


 私はただ、選ばなかった。そう、選ばなかったんだ。

 卑怯者。

 「行く」も「行かない」も選ばずに、「来なかった」の結果だけを受け取りに行って、こうして可哀想な顔で泣いている。

 

 ―それで、いいのです。


 本当に?


 ―銀糸は、あなたを救います。


 君は優しく微笑む。そしてそっと、手のひらが私へのびてくる。


 ―選びなさい。今度こそ、正しい糸を。



 はっと目を覚ます。今何時だろう。

 二時。そう二時に私は行かなきゃならない。

 スマホはどこ。


 私は慌てて起き上がる。帰りは、手元にスマホを持っていなかった。そうだ、バッグの中だ。

 ガサゴソと鞄の中を漁る。手の中にいないスマホはこんなにも小さいのか。ようやくスマホを見つけて画面に触れる。


 午前 一時四十八分。


 行かなくちゃ。

 私はそのままスマホだけを握りしめ、走って部屋を出た。



 もうあの月は雲に隠れて、空に星もない。

 真夜中の街は、嘘のように静かだった。誰も知らない、内緒の時間、秘密の道のりを私は駆けていく。

 信号の赤がもどかしい。こんな真夜中に行く車もないだろうに。なのに、私の行く手を阻む。止まると余計に呼吸は乱れた。胸が痛い。足が止まると言葉が暴走する。


 どこへ行くの。


 お寺。


 お寺へ行ってどうするの。


 池の前。


 なぜ行くの。


 逢いに。


 誰に。


 あの人に。


 あの人って誰。


 わからない。


 逢ってそれで、どうなるの。


 救ってくれる。


 救われるの。


 救われたいの。


 そして、また自分ではない誰かに縋るんだ。


 

 信号は無言のまま、青に変わる。慌てて駆け出す、両の足。

 ヒールの不格好な音と、私の乱れた呼吸だけが鳴り響く。頼りなく、惨めで、不揃いな音。


 と、突然、足がかくんと、落ちた。ヒールなんかで走るから。無様に私は転んだ。

 しかし、もうお寺の境内に入っていた。




 腕を擦った。顔を打った。スマホが手から転げ落ちて地面を滑り、植木の下まで走る。

 起き上がらなきゃ。大人になってこんな盛大に転んだことがあっただろうか。はしゃいだ子どものようにつんのめって。なのに子どもの頃のように、声をあげては泣けない。

 もうじき二時になる。池はきっとすぐそこ。暗くてよく見えないけれど、きっとすぐそこだから。

 君が、君が待っている。



 投げ出されたスマホの画面が青く光っている。そして、照らし出した先に、蜘蛛の巣が一つ。

 その糸は暗闇にぼんやりと浮かび上がっていた。細い細い銀の糸。

 けれどもその糸を見つめて、ざらりとした感覚が走る。その小さな蜘蛛の巣に、蝶が一匹かかっている。

 蜘蛛はどうしたのだろう。転がってきたスマホに驚いて引っ込んだのだろうか。


 正しい、糸。


 私はずっと、縋る糸を追っていた。

 でも糸に縋って、身を委ねたら、もう必死に飛ばなくて済んで、あなたは幸せになったの?


 無言の蝶に話しかけても、返事などあるわけがない。


 誰かの垂らした糸がなければ、私は歩いていけないのだろうか。糸に導かれなければ、正しくあることができないのか。

 目の前が、滲む。そして転がったままにしていたスマホの画面から、明かりがふっと消える。本物の真っ暗な、夜の闇に覆われる。

 

 池へ行っても、きっと誰もいない。

 無人の夜が広がっているだけ。

 もしも、もしも本当に誰かいたら、


 手が震える。地面に打ちつけた、身体のあちこちが痛い。腕はひりひりする。脚もじんじんする。顔は一体どうなっているのか。そう、私はとても痛い。すごくすごく痛かった。

 突然現れた少女。好き勝手に噂しては嗤う声。説かれる正しさ。都合よく切り捨てた男。何も選べない私。


 選びなさい、と君は言った。

 えぇ、私は、選ぶ。私は、選びたい。どんなに痛くても、私は私の言葉で、答えに辿り着かなければいけなかったんだ。




 もしも池で君に逢えても、

 私はきっと、ずっとひとり。




 ゆっくりと立ち上がり、私は落としたスマホの方へ向かう。足は捻ったようだ。ヒールも折れた。それでもしっかりと地面に足をついて歩く。そしてそっと明かりの落ちたスマホを拾い上げた。

 拾い上げたと同時にそのスマホを振り上げ、私は蜘蛛の巣に打ちつけた。

 巣はすぐに崩れはじめる。

 構わずスマホを振り下ろす。力なく、糸はちりぢりになっていく。

 八回打ちつけたところで、糸に絡まったまま蝶が地面に落ちた。


 蝶が落ちたところを見届けて、私は背を向け歩き出す。糸を断ち切っても、蝶は決して救われない。それでも。

 化粧が涙でボロボロに落ち、代わりに泥のついた顔を少しだけ手で拭った。


 ヒールの折れたパンプスを引きずり、私はひとり、歩きだす。



 ***



 池に浮かぶ蓮は、玉のような白い花を咲かせ、芳しい香りが溢れております。

 その蓮池の淵に、ひとり佇む影。




 神田水脈(みお)は罪人でございます。

 そして愚かな女でございました。


 わたしには理解ができません。なぜ目の前に差し伸べられた救済を選ばず、泥に塗れ汚れたその顔と手足で、また苦海に戻るのか。

 せっかく登りかけたその糸を、自らの手で断ち切るなんて。

 切に望んでいた安寧の救いも幸福も、もう手の届くところにあったのに。そんなこともわからぬ女だったのでしょうか。

 いえ、まさか。道を説く者もそばにいたでしょう。あらゆる言葉があの女を慰め、導きを与えたというのに。自分で選びたい、などと。


 それになんです?奈落まで再び堕ちたと言うのに、その足取りの確かなこと。なんと浅ましい。やはり太々しい女でございました。

 その上、泥に塗れ醜くなり果てたのに、なぜそんなにも晴れやかな顔をするのです?その無様な顔が、ほんの少しだけ美しいなどと思って、わたしまで毒されてしまうところでした。かくも深き罪業。


 え?このわたしが執心?

 まさか。ただの気まぐれでございます。

 




 池に咲く蓮は、玉のように白い花を咲かせ、芳しい香りが溢れております。


 お釈迦さまは小さなため息をひとつ。

 悲しそうに蓮池の淵に佇んでおりました。


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