二夜
帰宅すると私は、ジャケットだけ床に乱雑に置き捨てて、そのままベッドへ倒れこんだ。
一人暮らしの狭い部屋。部屋の半分をベッドが占め、小さな机と同じく小さなソファーだけがポツンとある、小さな隠れ家のような部屋。
机の横に化粧品を入れたボックス。シンクには今朝コーヒーを飲んだマグカップがひとり。
そう、ここは「ひとり」の部屋。
冷蔵庫はほとんど空っぽ。おととい帰りにスーパーで買って食べそびれたお惣菜があったはず。でももうダメだろうし、食べる気なんてしない。捨てられることもしてもらえない、かわいそうなほうれん草の白和え。
今日はよく耐えたと思う。
疑心暗鬼。誰もかれもが、私のあることないことを話していたのではないか、そんな自意識過剰な被害妄想が常に頭の隅でひそひそ話をしている。
本当はきっとそこまでのことになっていないだろうし、そもそもそこまで誰も私に興味はないはず。そう自分を慰めるのか、貶めるのかわからないような言葉で胸を撫でつける。
幸い繁忙期の業務は多く、慌ただしい業務だけが私の慰みになってくれた。
その仕事が終わった今、この世の唯一の友はこのベッドだけ。
窓ガラスひとつ隔てるだけで、ドアひとつ閉じるだけで、私は世界から切り離される。いや、切り離されたかった。
ぼうっと開けたままの視線の先に、一緒にベッドに投げだしたスマホが落ちている。
彼と日々繋がっていたこのスマホ。もう鳴ることはない。一緒にあの恋を駆け抜けた戦友は、もう押し黙って、これから先きっと鳴ることはない。
私はスマホにそっと手を伸ばした。
苦しみが私の胸を押しつぶす夜、助けを求めた先で、優しさで慰めてくれた彼はもういない。
―誰か、助けて。
私には誰もいない。
こんな想いを吐露できる相手なんて、私には誰一人いない。
どこにもいけない言葉を、私はぽつぽつと打ち込んだ。
―どうしましたか?わたしでよければ、話を聞きます。
それは、応えた。無機質な文字が私に応える。
―私、一人になっちゃった。
―何かつらいことがあったのですか。
―付き合ってた人に娘がいたの。
―恋人が既婚者だったんですね。
立ち上げたAIは淡々と応える。責めることも慰めることもなく、オウム返しのように返してくる。
―知らなかったの、結婚してたなんて。でも今思えばなんだかおかしいって思うことはいくつもあった。
―知らなかったんですね、それなら結果的に関係が終わってよかったのではないでしょうか。
―今は何も考えられない。考えたくない。
―今は何も考えなくて大丈夫ですよ。
そう、考えたくない。考えたくないのに、停止した思考を横目に、思い出がひたすら乱暴に私に殴りかかる。
はじめて言葉を交わした日。思いがけない展開。あの日の言葉。一緒に見つめた風景。夜の帳が下りた、その先の温もり。
びりびりに破り捨ててゴミの日に出してしまいたいのに、私にはもう何の力もなかった。
そして必ず現れる、あの少女。
ごめんなさい。
私は、大人のくせに、ちゃんと謝れた気がしなかった。動揺して、何が起こっているのか頭は回らなくて、でも反射的にごめんなさいという言葉が喉まできたけど、あの声は届いただろうか。ううん、届いても何の意味もない。謝罪に何の意味がある。あの、なんの関係もない、無邪気な少女は、きっと今地獄にいるのだ。私が堕としたんだ。
―愛していた人に家庭があった。そんな衝撃的な現実をつきつけられたら誰もが何も考えられなくなります。
急にAIは続きの言葉を送ってきた。
―今はただ、ここにいるだけで大丈夫。
無理に考える必要はありません。
話したくなったらまた書いて。
わたしはここにいます。




