一夜
神様は真夜中にいると思う。
暗闇の中、スマホの不健康な灯りだけが私の顔を照らしている。時々ネイルがスマホの画面に当たる、小さな小さな音だけが、耳を揺らす。
光も音も頼りなさすぎるこの部屋で、私はベッドの上。布団に入り横になりながら、誰も知らない幸せを切り取っている。
細い細い、光る銀の糸をたぐり寄せる、この時間。
この糸の先、繋がるあなたは、いったい誰?
***
神田水脈の罪業は、男でした。
本人に自覚はあらずとも、男を惑わせ道を踏み誤らせる性なのです。
ある日のこと、これまた神田に人生を狂わされた人間が一人。
あどけない少女が、目を真っ赤にして神田を睨みつけているではありませんか。
その少女の叱責を神田は無言で受けています。
なんと、罪深い女なのでしょう。
かわいそうな少女。この女に家族を壊されたのですから。
神田は何も申し開きもせず、弱々しく頭を下げるばかり。
そう、ひとつだけこの女を庇うなら、この女もまた知らなかったのです。愛する男に妻子がいたことを。
でもそれがなんなのでしょう。無実の少女に深い傷を負わせたことの免罪符にでもなるのでしょうか。知らなかった、というのなら、無知もまた罪でしょう。そもそも責任ある男の、良識的な判断を奪う性が、この女の罪業なのです。
神田は無垢な罪深い女なのです。
泣きながら少女が走って行った後、一人残った神田も泣いていました。
なぜ泣くのでしょう。良いではないですか。悪縁が御破算になったと喜ぶべきではないですか。一日一日と、罪は積み重なっていたのですから。
それとも己の罪の意識に苛まれて泣いているのでしょうか。まさか、まだあの男を想って泣いているのでしょうか。
ぽとりと地面に雫が落ちました。
時は夕刻、夏の夜はこれから始まります。しばし呆然としていた神田は、やがて歩き出しました。
やはり、太々しい女。卑しく赤く照らされた頬には、もう涙の跡もありません。きっと先ほどのそれは見間違いだったのでしょう。
背筋を伸ばし、靴をカツカツと鳴らして歩いていきます。雑踏の中へ、神田はあっという間に紛れて行ったのです。
***
翌朝デスクへ向かうと、そこに溜まっていたのはぬめっとした空気。何か違和感を感じる。心なしか、いつもより多く感じる視線。
嫌な予感はあたった。
昨日あの中学生とのやりとりを、きっと誰か見ている人でもいたのだろう。あの時に嫌な予感はしたの。私を包んでいた何か柔らかいものが、突然無惨に引き裂かれ、ひとつの季節が終わり過ぎ去ってしまった。目の前に、それまで隠されていた、つらく険しい道が突如として現れた。赤黒い、息が詰まるような熱気の中を進む、この道。私はきっと今、地獄に堕ちているのだろう。
中学生は、うさぎのように泣き腫らした目で私をまっすぐに責め立てた。正しい正しい非難。こんなに幼く力ない少女を、私と言う存在が打ちのめしたのだと言う事実。
まだ一度も染めたことのないであろう、黒く艶やかな髪。見るからに柔らかさで満たされているその肌に、紅潮した頬。固くぎゅっと結ばれた唇。
ひと目でわかった、彼の面影。
―お父さんを、家族を返してください。
震える声で少女は小さく、そう告げた。言い切るより早く、大粒の涙が、そのまっすぐ私を見据えていた目からこぼれた。聞き取れたかどうかわからないほどのか細い声。でも言葉ははっきりと、私の視界を壊した。世界が全て静止してしまった。
こんな愛らしい娘がいながら、彼は私と逢瀬を重ねていたのだ。そしてそこでぶっつりと彼との連絡も途絶えた。それが答えなのだろう。
「昨日何かあったの?」
オフィスのPC画面に、ぽんと文字が左下に浮かび上がる。同期の風瑠奈からのチャットだった。私は、はぁとため息がこぼれる。一体どんな話が回っているのだろう。そもそも誰が見て、誰に話して、どう話が盛り上がって。そう思うとうんざりした。私の知らないところ、好奇の言葉で私が作られている。
「今度ごはんでも行こうか?」
私の返事を待たずに、風瑠奈から続けざまにメッセージがやってくる。オフィスの電話がなる。私は誰よりも早く電話を取る。未読の数字2が画面に残ったまま。
早く「今日」も終わって。「昨日」がもう、追いつかなくなる日まで。




