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第8話 泥食い小僧、ロガへ出る

翌日。


「荒野に出るのは明後日じゃないんですか?」


「だから今日準備するんだろうが」


俺たちは荒野へ出るための買い出しに向かうことになった。


「水袋、干し肉、包帯、縄、火油、替えの靴。何もなしで魔獣のいる森に入ったら死ぬ」


「それはそうですけど」


「それに、お前も一度ロガを見ておけ」


「ロガを?」


「ああ。お前が二年も世話になってた村だ」


二年も世話になっていた。


そう言われると変な感じがした。


俺にとっては、昨日今日の話だ。


けれど、この村の人間にとって俺は、二年間ずっと「泥を食っていた狂ったガキ」だったらしい。


正直、あまり会いたくない。


できるなら、工房で寝ていたい。


肩もまだ痛い。


腹の中は気持ち悪い。


頭の中には棒立ちカピバラ。


外に出る理由が見当たらない。


『外出は非推奨です』


カピも言った。


『現在の猿は負傷、低体力、社会的孤立状態にあります』


「最後のやつ、言わなくていいだろ」


『事実です』


「分かってるよ」


アイシャが俺を見た。


「またカピさんですか」


「さん付けやめて。こいつ調子に乗るから」


『敬意は記録します』


「記録するな」


ゲラルトが言った


「いいか、お前は二年間寝たきりだったわけじゃねえ、体は動くんだ。動かし方を忘れちまってるだけだ。だからどんどん動け」


『指針を変更します、外出してください』


「おまえ自分で言った事すぐ撤回するなよ」


『猿のデータ不足の為、提案の推定精度70%です』


「……案外あてにならん」


ゲラルトは俺の背中へ外套を投げた。


「お前の体のことは、村の連中に言うな。見えねえ獣のこともだ」


「分かってます」


俺は外套を羽織った。


擦り切れていて、少し獣臭い。


けれど肩の包帯は隠れる。


胸元のクジラのキーホルダーも、服の内側にしまった。


これを見られて騒ぎになるのも困る。


髪がぼさぼさだったので、とりあえず後ろで結んだ。いずれ切りたい。


工房を出ると、朝の空気が冷たかった。


ロガ村は、工房から少し坂を下りた先にあった。


村というより、丸太の柵に囲まれた小さな砦みたいだった。


柵の外には畑。


さらに外には、黒い森と荒れた岩場。


遠くには、昨日地図で見た大淵の方角だろうか、空の色が少しだけ暗く見える気がする。


「ここがロガ……」


俺が呟くと、アイシャが隣で説明してくれた。


「魔獣狩りと鍛冶と、旅人相手の商いで成り立ってます」


村の入口には、自警団らしき男が二人立っていた。


槍を持ち、革鎧を着ている。


そのうちの一人がゲラルトを見て手を上げた。


「ゲラルト。昨日の件、団長が礼を言ってたぞ」


「礼じゃなくて修理代を寄越せ」


「それは団長に言え」


男はそこで俺に気づいた。


視線が、俺の顔から手、足、そして外套の下の包帯のあたりへ動く。


「ああ……泥食いか」


その言葉は、思っていたより刺さった。


悪意があるわけじゃない。


ただ、そういうものとして呼んでいる。


犬を犬と呼ぶみたいに。


「名前、あります」


俺は思わず言った。


男が少し驚く。


「喋るのか」


「喋ります」


「そりゃ……悪かったな」


悪かった、と言いながらも、男は半歩だけ距離を取った。


アイシャが小さく俺の袖を引く。


「行きましょう」


村の中へ入る。


ロガは、朝から騒がしかった。


鍛冶場の槌音。


皮なめしの嫌な匂い。


干し肉を吊るす煙。


馬の鳴き声。


子供の声。


地面は石畳ではなく、踏み固められた土だった。


ところどころに泥が溜まっている。


その泥を見た瞬間、何人かの村人が俺を見た。


ひそひそ声が聞こえる。


「見ろ、泥食いだ」


「普通に立って歩いてるぞ」


「正気に戻ったって本当だったのか」


「でも、近づくな。前に噛まれたって」


「ゲラルトの工房にいる化け物だろ」


俺は俯きそうになった。


二年間の記憶はない。


でも、俺がここで何をしていたのかは、村人たちの目で分かった。


恐れ。


気味悪さ。


少しの憐れみ。


そして、距離。


俺はこの村で、人間というより災害みたいに扱われていたらしい。


『群れからの拒絶反応を確認』


「実況すんな」


『危険度は低いですが、精神負荷は高いと推定されます』


「分かってる」


「何が分かってるんですか?」


アイシャが聞く。


「いや、なんでもない」


ゲラルトがちらりと俺を見た。


「気にするなとは言わん。だが、足を止めるな」


「はい」


「止まったら、余計に見られる」


確かにそうだった。


俺は歩いた。


足はまだ頼りない。


でも、歩いた。


最初に寄ったのは雑貨屋だった。


店主は、丸い体の中年女だった。


アイシャが「マーサさん」と呼ぶ。


マーサはゲラルトを見るなり顔をしかめた。


「また荒野かい。あんたは命を何個持ってるんだい」


「一個だ」


「なら大事にしな」


そう言ってから、マーサは俺を見た。


そして、明らかに固まった。


「……ああ」


「あの、こんにちは」


俺が頭を下げると、マーサは目を丸くした。


「喋った」


「みんなその反応なんですね」


「そりゃそうだよ。あんた、前はうちの泥壺に頭突っ込んで離れなかったんだから」


「本当にすみません」


知らない罪がどんどん増える。


マーサはまだ少し怯えていたが、商売人としての根性が勝ったらしい。


棚から干し肉、硬い黒パン、豆袋、塩、小さな火打ち石を取り出して並べた。


「二日分? いや、ゲラルトなら三日分持っていきな。どうせ余計なことをする」


「よく分かってるじゃねえか」


「分かりたくて分かってるんじゃないよ」


アイシャが水袋を選ぶ。


俺は店の隅で、古びた箱や錆びた道具を眺めた。


遺跡から出たガラクタらしい。


欠けた金属板。


黒い四角い箱。


丸い穴の空いた透明な板。


一瞬、何かを思い出しそうになった。


スマホ。


そう口にしそうになって、やめる。


黒い箱は割れていて、ただの石みたいだった。


でも、この世界にあるには妙に不自然な形だった。


「それは触るんじゃないよ」


マーサが言った。


「古物だ。たまに熱を持つ。指が焦げる」


俺は手を引っ込めた。


「遺跡のものですか」


「さあね。パドがどこかから拾ってきたんだよ。使い道はないけど、物好きが買う」


パド。


昨日仕事を持ってきた情報屋だ。


こういうものを集めているのか。


頭の隅に留めておく。


店を出る時、マーサは包みに小さな焼き菓子を一つ追加した。


アイシャが驚く。


「マーサさん?」


「割れたやつだよ。売り物にならない」


マーサは俺を見ないまま言った。


「正気に戻ったんなら、泥よりこっちを食いな」


俺は少しだけ言葉に詰まった。


「……ありがとうございます」


マーサは鼻を鳴らした。


「礼も言えるなら、また来ておくれよ」


次に向かったのは、自警団の詰所だった。


昨日の野盗の件で、ゲラルトが報酬を受け取る必要があるらしい。


詰所の前には、片目に古い傷を持つ大柄な男がいた。


自警団長のオルンというらしい。


「ゲラルト」


「オルン」


二人は短く挨拶した。


仲がいいのか悪いのか分からない。


オルンは俺を見た。


「泥食いが正気に戻ったと聞いたが、本当だったか」


「ミナトです」


「名乗れるなら、そう呼ぼう」


その返事は少し嬉しかった。


オルンは革袋をゲラルトへ投げる。


「昨日の赤竜の牙、賞金分だ。生きていた一人は吐いた。連中、北の荒れ森に根を張っているらしい」


「緋角蜥蜴の出た場所とかぶるな」


「そうだ。気をつけろ」


「俺に言ってるのか」


「お前じゃない。そこの怪我人と娘に言ってる」


オルンの目が俺とアイシャを見た。


「赤竜の牙の残りは、仲間をやられて頭に血が上っている。森で会えば、まず襲ってくる」


俺は喉を鳴らした。


魔獣だけじゃない。


野盗の残党もいる。


荒野行きの危険が、どんどん現実になっていく。


「それから」


オルンは声を落とした。


「王都から徴税官が来る。護衛に王国兵もつくそうだ」


ゲラルトが嫌そうな顔をする。


「またか」


「戦線が押されてるんだとよ。魔獣狩りの素材も、術師も、金も、持っていけるものは何でも持っていく気だ」


アイシャが不安げに言った。


「王都の戦線って、そんなに悪いんですか」


「詳しくは知らん。だが、西の方で変な魔獣が増えてるって話だ。術が効きにくい個体もいるとか」


ゲラルトの目が細くなった。


「術が効きにくい、ねえ」


俺にはその意味がまだ分からない。


でもゲラルトの顔を見る限り、笑える話ではないらしい。


詰所を出ると、村の広場に出た。


中央には石像が立っていた。


剣を掲げる男の像。


足元には五つの印。


火。


水。


風。


土。


光。


始祖王。


アイシャがそう教えてくれた。


「アウレリアを作った最初の王様です。神様から五つの力を授かって、魔獣を焼き払い、人々を守ったって」


「へえ」


俺は像を見上げた。


立派な像だった。


やっぱり五つか……


「どうしました?」


「いや……なんでもない」


ゲラルトが石像を一瞥して鼻で笑う。


「立派に盛ったもんだ」


「師匠、広場でそれ言わないでください」


「本当のことだろ」


アイシャが慌てて周囲を見回した。


王家の神話を疑うのは、あまり大っぴらに言うことではないらしい。


次は薬師の店だった。


店主はリタ婆という小柄な老婆だった。


白い髪を布でまとめ、鼻が鋭い。


俺を見るなり、目を細めた。


「こっちへ来な」


「え?」


「傷を見せな。あんたケガしてるだろ」


素直に包帯を取って傷を見せる


「ゲラルトの縫い目なんざ信用できない」


「おい婆」


「黙りな、鉄馬鹿」


ゲラルトが黙った。


強い。


リタ婆は俺の肩の傷を見て、薬草を塗り、傷の周りを指で押した。


「熱は引いてるね。腐ってはいない。だが血が薄い」


「血が薄い?」


「顔色の話だよ。変な病を腹に抱えてるみたいな顔をしてる」


俺は固まった。


リタ婆は、じろりと俺を見る。


「図星かい」


「いえ、その」


「言いたくないなら言わなくていい。人間、腹に一つや二つ、言えないもんは抱える」


一つや二つどころか、鉄屑と核なんですけど。


とは言えなかった。


リタ婆は苦い匂いのする軟膏と、干した葉の束を渡してくれた。


「夜に煎じて飲みな。眠れる」


「ありがとうございます」


「それと」


リタ婆は俺の顔を近くで覗き込んだ。


「泥を食いたくなったら、まず水を飲みな」


「もう食べません」


「そう願ってるよ」


最後に、古着屋で靴と替えの服を買った。


ここの店主は俺に近づきたがらず、長い棒で服を寄越した。


「触って選ばないでくれ」


そう言われた時、さすがに胸が痛んだ。


アイシャがむっとした顔になる。


「ミナトさんはもう正気です」


「昨日までは違ったろ」


店主の返事に、アイシャは言い返せなかった。


俺も何も言えなかった。


事実だからだ。


記憶はない。


でも、俺は確かに二年間、誰かを怖がらせていた。


怒る資格があるのかどうかも分からない。


『この個体はお前を警戒しています』


「分かってる」


ちなみにカピは二本足で歩いてテクテクとついてきている。


俺は深呼吸して、棒の先から服を受け取った。


「これ、ください」


店主は少しだけ気まずそうに金額を言った。


ゲラルトが払った。


村を一回りする頃には、俺はへとへとだった。


ただ歩いただけ。


買い物をしただけ。


なのに、荒野を一日歩いたみたいに疲れていた。


広場の端で休んでいると、子供たちがこちらを見ていた。


三人。


一人が小声で言う。


「泥食いだ」


もう一人が真似をする。


「泥食い、泥食い」


アイシャが立ち上がろうとした。


俺はそれを止めた。


「いいよ」


「でも」


「事実だし」


言ってから、自分で少し傷ついた。


その時、一番小さい子が、ふざけて泥の塊を投げようとした。


『右頬へ飛来』


カピの声。


俺は首を少しだけ傾けた。


泥の塊が耳の横を飛び、後ろの壁に当たって潰れた。


子供たちが固まる。


俺も固まった。


避けられた。


三息先の死ではない。


ただの観察と警告。


でも、十分だった。


「こら!」


そこへ女の人が駆け寄ってきて、子供の頭を叩いた。


「何してるの!」


「だって泥食いが――」


「黙りな!」


女の人は俺を見る。


申し訳なさそうな顔と、怖がる顔が混ざっていた。


「すみません」


「いえ」


俺は首を振った。


子供は母親の後ろに隠れた。


その目は、まだ俺を怪物みたいに見ている。


俺は何も言えなかった。


怒鳴ることもできた。


笑って許すこともできた。


けれど、どちらも嘘っぽく思えた。


だからただ、壁についた泥を見た。


泥。


昨日までの俺の名前。


「ミナトさん」


アイシャが小さく言った。


「行きましょう」


「うん」


帰り道、村の出口近くでパドに会った。


昨日仕事を持ってきた小柄な情報屋だ。


「おう、泥……じゃなかった。ミナトだったか」


「言い直してくれてありがとうございます」


「立って歩く泥食いなんて珍しいからな。名前くらい覚えるさ」


褒めているのか分からない。


パドはゲラルトに近づき、声を落とした。


「北の荒れ森、やっぱり妙だぞ。緋角蜥蜴だけじゃねえ。小物の魔獣が南へ逃げてきてる」


「何かに追われてるのか」


「さあな。あと、赤竜の牙の残りが森にいる。お前らが来るなら襲うかもしれねえ」


「面倒だな」


「いつものことだろ」


パドはそこで、俺の胸元をちらりと見た。


クジラは服の下に隠している。


見えたはずはない。


「ミナト。村の連中の目は気にすんな」


「え?」


「辺境の連中は、変なものを怖がる。だが、役に立つと分かれば手のひらを返す。そういうもんだ」


「それはそれで嫌ですね」


「生きやすいと思え」


パドは笑って、村の方へ戻っていった。


工房へ帰る頃には、夕方になっていた。


荷物は多い。


足は棒みたい。


肩は痛む。


村人の視線は、まだ背中に残っている気がした。


でも、工房の扉が見えた時、少しだけほっとした。


ここは血臭くて、鉄臭くて、乱暴で、カピが棒立ちしている。


それでも、今の俺には帰る場所だった。


「疲れたか」


ゲラルトが言った。


「めちゃくちゃ疲れました」


「なら飯食って寝ろ。明日は荷を詰める。明後日、森だ」


「はい」


俺は荷物を下ろし、外套を脱いだ。


胸元で、小さな青いクジラが揺れた。


村の広場の始祖王像。


五つの印。


削れたような、変な窪み。


古物屋の黒い箱。


王都から来る徴税官。


術が効きにくい魔獣。


赤竜の牙の残党。


情報がまた増えた。


でも今は、ひとつだけ分かったことがある。


この世界で俺は、まだ泥食いだ。


けれど、名前を呼んでくれる人もいる。


ゲラルト。


アイシャ。


パド。


まだ少ない。


でも、ゼロじゃない。


俺はクジラを服の内側へ戻した。


「ミナト、か」


自分の名前を小さく呟く。


この世界で、もう一度その名前を生かす。


それが、最初にやるべきことなのかもしれない。

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