第7話 カピバラ・ナビゲーション
意識の覚醒から三日後。
俺は寝て、食って、床を拭いて、また寝た。
そして、その全部を、角つきカピバラに見られていた。
工房の奥。
空き棚の前。
奴は相変わらず、二本足で棒立ちしている。
朝起きてもいる。
飯を食っていてもいる。
傷口を替えられて悶絶している時もいる。
夜中、ふと目が覚めても、薄暗い工房の奥に丸い影が立っている。
正直、幽霊より怖い。
「お前さ」
俺は粥をすすりながら、工房の奥へ言った。
「せめて座れないの?」
『不要です』
「見てるだけなら、もうちょっと遠慮しろ」
こいつは俺を信頼しているわけじゃない。
俺を主人だと思っているわけでもない。
でも、俺が死ぬと自分も困るから、仕方なく守っている。
腹立つ。
腹立つが、昨日それで命が助かった。
あの三息先の死体。
あれがなければ、俺の首は今ごろ床の染みになっていた。
「ちなみに、あれはいつでも見せられるのか?」
『あれ、とは』
「死ぬやつ。三息先の俺の死体」
アイシャの手が止まった。
ゲラルトも炉の前で、かすかにこちらへ耳を向けている。
『常時は不可です』
「なんで」
『お前の器が弱いからです』
「毎回俺のせいにするな」
『事実です。お前の腹と脳は、私の本来の主に比べてあまりに粗い。無理に先を映せば、熱で狂うか、倒れます』
「一つだけなんだな」
『はい』
「三つとか、十個とかは?」
『贅沢な猿です』
「聞いただけだろ」
『今は一つが限界です。そして一度映せば、しばらくは鈍ります』
だから昨日、魔術師の火を前にしても二度目は見せられなかったのか。
頼れるけど、頼りきれない。
しかも見えるのは、基本的に死ぬ時だけ。
嫌な能力だ。
助かるには助かるが、毎回一度自分が死ぬ場面を見なきゃいけないとか、嫌すぎる。
「じゃあ普段は何ができるんだよ」
『観察と警告です』
「例えば?」
『今、左手で匙を持てば肩の縫い目が開きます』
「持たねえよ」
『二歩先の床板が濡れています。踏めば滑ります』
「床掃除したの俺なんだけど」
『仕事が雑です』
「うるせえ」
『炉の上の棚、右から三番目の金槌が落ちます』
「え?」
その瞬間、がたん、と音がした。
炉の上の棚から、小さな金槌がずれ落ちる。
俺は反射で首を引っ込めた。
金槌は俺の目の前をかすめ、床に落ちた。
ごん、と鈍い音。
アイシャが悲鳴を上げた。
「危なっ……!」
俺は冷や汗をかいた。
「なんでわかったんだ?」
『棚が傾き、柄が震えていました。猿でも見れば分かります』
「見えねえよ」
『だから猿なのです』
「お前、警護より煽りの方が得意だろ」
でも、便利ではある。
腹立つくらい便利だ。
俺は落ちた金槌を拾い上げ、棚へ戻した。
戻そうとして、左肩が引きつった。
「いっ……」
『その角度で腕を上げると傷が開きます』
「先に言え」
『言いました』
「遅い」
アイシャが慌てて駆け寄ってきた。
「ほら、無理しないでください。まだ傷が塞がってないんですから」
「すみません」
「まったく……見えないカピバラさんの方が、あなたより自分の体を分かってるじゃないですか」
「さんづけで呼ぶのやめて。調子に乗る」
『敬意は受け取ります』
「受け取るな」
アイシャが少し笑った。
この三日で、彼女は俺が見えないものと喋ることに、少しだけ慣れてきたらしい。
怖がりはする。
けれど、逃げなくなった。
俺としては、それだけでもありがたい。
「名前、ないと不便だな」
俺は工房の奥に立つカピバラを見た。
「お前、名前あるの?」
『あります』
「何」
『失われています』
「あるけどないのかよ」
『名の記録が欠けています』
「じゃあ、カピでいいか」
『却下します』
「カピ」
『却下します』
「よろしくな、カピ」
『却下します』
アイシャが吹き出した。
「いいじゃないですか、カピさん」
『却下します』
「多数決でカピだな」
『猿社会の横暴を記録しました』
「記録残せるのかよ」
『懸念事項は残ります』
「最悪だなその仕組み」
カピは、相変わらず棒立ちのままだった。
でも、最初に見た時より、少しだけ存在がはっきりしている気がした。
ただの剥製じゃない。
触れずすり抜けるが、幻覚でも、たぶんない。
俺の腹の中の核が見せている、古い守り番。
俺を信用していない。
でも、俺が死なない程度には守る。
そんな妙な相棒。
相棒、と呼ぶにはまだ腹立たしすぎるけど。
「小僧」
ゲラルトが炉の前から呼んだ。
「はい」
「いつまで見えねえ獣と遊んでる。歩けるなら、こっち来い」
「遊んでたわけじゃ……」
『歩行訓練は推奨されます』
「お前までそっち側かよ」
俺は作業台から降りた。
足は大分動くようになった。
走れはしないが、日常生活は問題ない。
床板を踏むたびに、腹の奥が微かに重い。
青白い核がそこにある、という事実は消えない。
でも、立てる。
歩ける。
それだけでも、今は十分だ。
ゲラルトは俺に短い木剣を投げた。
受け取ろうとして失敗し、床に落とす。
「……すみません」
「拾え」
「はい」
「片手でいい。持って構えろ」
「肩が」
「左は使うな。右だけだ」
俺は木剣を右手で握った。
重い。
いや、本当は軽いのかもしれない。
ただ、今の俺には十分重かった。
「剣を振るんですか」
「振らなくていい。まず握れ。握って立て」
「それ訓練ですか?」
「お前の場合は訓練だ」
反論できない。
ゲラルトは俺の足元を見た。
「膝が逃げてる。腰を落とせ」
「こう?」
「違う。死にたいのか」
「立ち方で死にたくないです」
『右足が外へ開きすぎています』
「カピまで口出すな」
『転倒の恐れがあります』
「分かったよ」
右足を少し内へ戻す。
すると、確かに身体のぐらつきが減った。
悔しい。
カピが正しいのが悔しい。
「ほう」
ゲラルトが目を細めた。
「見えねえ獣、役には立つらしいな」
「腹立つくらいには」
『感謝は不要です』
「してねえ」
ゲラルトもアイシャも慣れてきて、俺の独り言からカピが何を言っているのかわかるようになっているようだ。
「小僧、その獣の事、あまり人に言うんじゃねえぞ、便利な力を悪用しようとするやつは五万といる」
「・・・分かりました」
それからしばらく、俺は立つ練習をした。
剣を振る以前の問題だった。
立つ。
倒れない。
右手で木剣を握る。
呼吸する。
たったそれだけで、汗が出た。
二年間の狂気は、俺の体から色々なものを奪っていたらしい。
筋力も。
体力も。
普通に立っている感覚も。
けれど、不思議なことに、周りの流れだけは分かった。
ゲラルトが炉に鉄を入れる時、火が少しざわつく。
アイシャが小さな淡い線を描いて火を足す時、下の曲がり角がわずかに濁る。
壁に掛かった魔剣の芯材は、どれも眠った獣みたいに微かな気配を持っている。
俺の血は何も呼べない。
でも、俺の腹は、周りの音を拾う。
嫌でも拾う。
感覚としては、例えば、目をつぶって炉の前に立てば、熱が来る方向から、炉がどこにあるか誰でもわかるはずだ。
それが熱以外、魔法や魔力に反応してしまっているという状況だ。
慣れない。
「気持ち悪いか」
ゲラルトが聞いた。
「正直、気持ち悪いです」
「慣れろ」
「そればっかりですね」
「慣れなきゃ死ぬことが多い」
この人の言葉は雑だ。
けれど、嘘がない。
その日の夕方。
俺がようやく木剣を持って十呼吸立てるようになった頃、工房の扉が叩かれた。
昨日吹き飛ばされた扉は、板を打ちつけただけの仮修理になっている。
がん、がん、と乱暴な音が響いた。
「ゲラルト! いるか!」
外から、しわがれた男の声。
ゲラルトが舌打ちする。
「うるせえ!パド、扉を壊す気か」
「もう壊れてるだろうが!」
入ってきたのは、小柄な中年男だった。
背中に革袋を背負い、腰には短剣。
商人というより、荒野を歩き慣れた情報屋みたいな雰囲気だ。
男は俺をちらりと見た。
「お!泥食い、立ってるじゃねえか」
「有名なんですか、俺」
「悪い意味でな」
最悪だ。
男はゲラルトに丸めた羊皮紙を投げた。
「仕事だ。急ぎの素材取り。緋角蜥蜴の角が二本。」
ゲラルトの目が変わった。
「緋角蜥蜴?」
「ああ。北の荒れ森に出た。火を溜める角を持ってる。王都の馬鹿どもが買い叩こうとしてたが、こっちの方が先に話を回した」
「報酬は」
「銀貨五十。状態がよけりゃ七十」
アイシャが小さく息を呑む。
俺には相場が分からない。
でも、彼女の反応を見る限り、かなり大きい仕事らしい。
ゲラルトは羊皮紙を開き、しばらく見た。
そして、口の端を吊り上げる。
「久々の大仕事だな」
「ですよね?」
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がした。
ゲラルトは俺を見る。
「小僧。三日後、荒野に出るぞ」
「俺も?」
「お前も」
「怪我人なんですけど」
「片腕は残ってる」
「その理屈やめません?」
「荷物持ちと見張りくらいはできる」
「できるかなあ……」
『外出は非推奨です』
カピが言った。
『荒野には大型肉食個体、毒性植物、足場の悪い地形が多数存在します。猿の生存確率は――』
「言うな」
『低いです』
「言うなって言っただろ!」
アイシャが不安そうに俺を見る。
「私も行きます。師匠一人だと、絶対この人を雑に扱います」
「俺の扱い、もう確定で雑なんだ」
「確定です」
ゲラルトは笑った。
低く、楽しそうに。
「いいじゃねえか。泥食い小僧の歩行訓練にはちょうどいい」
「荒野で歩行訓練するな」
「ついでに魔獣も見る。腹の中の道具が何を拾うか、試せる」
俺は黙った。
怖い。
正直、工房の外に出るだけでも怖い。
昨日まで死体が転がっていた場所で床掃除をしている方が、まだましに思えるくらいだ。
でも。
魔獣。
魔剣の素材。
荒野。
この世界の外。
俺の胸元で、小さな青いクジラが揺れた。
この工房に閉じこもっていても、何も分からない。
俺がどこから来たのか。
なぜクジラが遺跡に刻まれているのか。
腹の中の核が何なのか。
カピは何なのか。
知るには、外へ出るしかない。
「……分かりました」
俺は木剣を握り直した。
「行きます」
ゲラルトが満足げに頷く。
「いい返事だ」
『愚かな判断です』
「うるさい、カピ」
『その名は却下します』
「名前の却下はもう却下した」
『猿社会は理不尽です』
その時、カピの丸い目が、ほんの少しだけ細くなった気がした。
最低限でもいい。
今の俺には、三息先の死を教えてくれる口の悪いカピバラと、血で火を灯す弟子と、乱暴な魔剣鍛冶師しかいない。
それでも。
俺は、まだ生きている。




