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第9話 見知らぬ星と、火掻き棒

その夜、夢を見た。


まだ俺が小学生だった頃の夢だ。


青い水槽の前に、俺は立っていた。


水族館の大きな水槽。


ガラスの向こうを、巨大な影がゆっくり泳いでいる。


「でっか……」


俺が呟くと、隣で父さんが笑った。


「クジラはな、海で一番大きい獣なんだ」


「魚じゃないの?」


「獣だよ。俺たちと同じように息をするし、子供に乳をやる」


父さんは、そういう豆知識を楽しそうに話す人だった。


ガラスの向こうを泳ぐクジラが、やけに静かで、やけに大きくて、すごいものに見えた。


帰り道、売店で父さんが小さなキーホルダーを買ってくれた。


青いクジラのキーホルダー。


「なくすなよ」


「なくさないよ」


「迷子になった時の目印にしろ」


「何それ」


「クジラはでかいからな。海でも見失わない」


父さんは、変な理屈で笑っていた。


夢の中の俺も笑っていた。


けれど、夢はそこで終わらなかった。


場面が変わる。


雨。


病院の廊下。


白い壁。


消毒液の匂い。


母さんが泣いていた。


誰か大人が、小さな声で何かを説明している。


事故。


間に合わなかった。


そういう言葉だけが、子供の俺の耳に残っていた。


父さんは、その日から帰ってこなかった。


「……っ」


目が覚めた。


工房の天井が見える。


煤で黒ずんだ梁。


鉄と薬草と血の匂い。


肩が痛い。


胸の奥が重い。


夢じゃない。


ここは日本じゃない。


俺は胸元を探り、服の下にしまっていた青いクジラを握った。


冷たい。


小さなプラスチックの感触。


父さんが買ってくれたもの。


この世界にはいないはずの生き物。


なのに、古い遺跡には刻まれているらしい幻獣。


「……母さん」


声に出してから、喉が詰まった。


今まで、考えないようにしていた。


いや、考える余裕がなかった。


目覚めてすぐ野盗に襲われて、死にかけて、縫われて、腹の中に鉄屑と核があると知らされて、村に出れば泥食いと呼ばれて。


ドタバタしすぎて、日本のことをきちんと考える隙がなかった。


静かになると、全部戻ってくる。


母さんを、一人にしてしまった。


父さんが死んでから、母さんはずっと一人で俺を育ててくれた。


俺までいなくなったら、どうなるんだろう。


向こうでは、俺は死んだことになっているんだろうか。


それとも、失踪事件になっているんだろうか。


俺の最後の記憶は、濡れたアスファルトと車のライトだった。


友達は普通に学校へ行っているんだろうか。


俺の机は、もう片づけられているんだろうか。


それとも、まだそのままなんだろうか。


考え出すと、胸の奥が苦しくなった。


戻ることは、できるんだろうか。


体は十六歳になっている。


何がどうなっているのか、まるで分からない。


もし戻れるとして。


最後の記憶の場所に、そのまま戻るのだとしたら。


濡れた道路。


迫ってくる車のライト。


あの瞬間へ戻されたら、戻った途端に多分死ぬ。


戻る方法があったとしても、時間と場所を選べなきゃ意味がない。


そんな都合のいい方法が、この世界にすぐ見つかるとは思えなかった。


考えが、ぐるぐる回る。


戻りたい。


でも、戻ったら死ぬかもしれない。


戻れるかどうかも分からない。


戻った時、この体なのか、元の十四歳の体なのかも分からない。


腹の核はどうなる。


カピはどうなる。


母さん。


父さん。


俺は、寝台の上で膝を抱えた。


工房の奥には、カピが立っていた。


いつものように、二本足で。


棒立ちで。


でもその夜、カピは何も言わなかった。


それが少しだけ、ありがたかった。


翌日は、荷造りで潰れた。


水袋に水を詰める。


干し肉を布に包む。


硬い黒パンを袋へ入れる。


包帯、薬草、縄、火油、火打ち石。


アイシャは手際よく荷を分けていく。


俺は言われたものを運ぶだけで息が上がった。


「本当に大丈夫ですか?」


アイシャが何度も聞いた。


「大丈夫じゃないけど、行くらしいです」


「言い方が投げやりです」


「実際、投げられてる気分なので」


ゲラルトは魔剣の刃を黙々と手入れしていた。


その姿を見ると、文句を言っても無駄だと分かる。


この人はもう行く気だ。


そして俺も、行かない理由を探しながら、行く理由を見つけてしまっている。


この世界のことを知るには、外に出るしかない。


自分の腹の中のものを知るにも。


クジラの謎を追うにも。


まず、生きて、歩いて、見に行くしかない。


その夜。


俺は眠れず、工房の外に出た。


空を見上げる。


星が出ていた。


見たこともない星座だった。


オリオンも、北斗七星もない。


月に似た白いものは浮かんでいる。


でも、星の並びが違う。


夜空の形が、俺の知っている世界と違う。


魔法がある。


血で淡い線が引かれる。


魔獣がいる。


この世界にはクジラがいない。


そして星まで違う。


天国というには、あまりに生々しい。


肩は痛いし、胸は気持ち悪いし、飯は腹に溜まるし、村では泥食いと呼ばれる。


地獄というには、マーサさんの焼き菓子は少し甘かった。


だから、やっぱり。


異世界に飛ばされた。


それが一番、腑に落ちる。


「……当面は、ここで生きるしかないか」


声に出すと、少しだけ腹が決まった気がした。


日本に戻る方法は探したい。


母さんに会いたい。


でも、そのためにも、まずは死なないで生きる強さを手に入れることだ。


明日の森で死んだら、全部終わる。


工房へ戻ると、ゲラルトが炉の前で道具を確認していた。


「寝てねえのか」


「少し、星を見てました」


「星で腹は膨れねえぞ」


「ロマンがない」


「ロマンで魔獣は斬れねえ」


この人は本当にブレない。


俺は工房の隅に置かれていた黒い鉄の筒を見た。


先日、俺が使った火掻き棒。


いや、ゲラルトいわく、魔獣の骨を練った失敗作の芯材。


先端は焦げ、ところどころ歪んでいる。


でも、それは俺の命を何度も救った。


魔術師の術の首を突いた。


剣を受けた。


炉の蒸気を爆ぜさせた。


ただの棒に見えるのに、俺よりよっぽど荒事に慣れている。


俺はそれを手に取った。


妙に手に馴染む。


「おい」


ゲラルトが眉を上げた。


「火掻き棒持っていくのか?」


「杖代わりに使っちゃだめですか?」


「杖?」


「歩くの、まだ不安なんで」


本当はそれだけじゃない。


少しだけ、愛着が湧いていた。


命綱みたいなものだった。


ゲラルトはしばらく俺と火掻き棒を見比べた。


そして鼻で笑った。


「好きにしろ。ただし、それで魔獣と殴り合えると思うなよ」


「思ってません」


「なら持て。転ぶよりはましだ」


俺は黒い火掻き棒を握り直した。


翌朝。


空が白み始める前に、俺たちは工房を出た。


ゲラルトは魔剣を背負い、アイシャは荷袋を抱えている。


俺は外套を着て、胸元のクジラを服の内側にしまい、右手に火掻き棒を持った。


カピは少し離れた横を、二本足でてくてく歩いている。


相変わらず俺にしか見えていない。


ロガの柵の向こうには、荒れた道と黒い森が続いていた。


怖い。


戻りたい。


でも、立ち止まっても何も変わらない。


その時、ゲラルトの声が飛んだ。


「おい、ボケっとしてんじゃねえ」


俺は顔を上げる。


ゲラルトが振り返っていた。


「置いてくぞ、ミナト」


名前を呼ばれた。


泥食いじゃなく。


ミナトと。


俺は火掻き棒を杖みたいに地面へ突いた。


「行きます」


そして、ロガの柵の外へ一歩踏み出した。

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