第10話 荒野へ、そして森へ
ロガの柵を出ると、世界の匂いが変わった。
村の中にあった煙と鉄と獣脂の匂いが薄れ、代わりに乾いた土と草の匂いが鼻に入ってくる。
道はある。
けれど、日本で見慣れた舗装道路なんかじゃない。
荷車の車輪が何度も通ってできた、踏み固められた土の筋だ。
その先に、灰色の荒野が広がっていた。
遠くには黒い森。
さらに向こうには、空まで汚れているような暗い稜線。
大淵の方角だ。
「いいか」
ゲラルトが先頭を歩きながら言った。
「荒野で死にたくなけりゃ、三つ覚えろ」
「はい」
「一つ。水を切らすな」
「はい」
「二つ。綺麗なものに触るな」
「綺麗なもの?」
「毒か、餌か、罠だ」
嫌な三択だった。
「三つ。妙に静かになったら、走るな。伏せろ」
「なんでですか」
「でかいのが近い」
俺は思わず周囲を見回した。
草むら。
岩。
枯れ木。
全部が急に怪しく見える。
『右前方、窪み』
カピの声がした。
俺は反射的に足を止めた。
次の一歩を置こうとしていた場所に、草で隠れた穴があった。
踏んでいたら、足首をひねっていたかもしれない。
「……助かった」
カピは何も返さなかった。
最近分かってきた。
こいつは喋る時はやたら腹が立つが、黙っている時もある。
「どうしました?」
アイシャが後ろから聞いた。
「穴があった」
「よく見つけましたね」
「カピが」
「ああ……カピさんが」
アイシャは少し笑った。
ゲラルトは振り返りもせずに言う。
「見えねえ獣でも役に立つなら使え。だが頼り切るな。最後に足を置くのはお前だ」
「はい」
火掻き棒を杖のように突きながら歩く。
昨日までは工房の床掃除だけで息が上がっていた。
今日は荒野だ。
土は柔らかい。
石は転がる。
坂は地味にきつい。
肩の傷が熱を持ち、腹の奥の核が歩くたびに重く揺れる気がした。
それでも、一歩ずつ進んだ。
ロガの柵が後ろで小さくなる。
戻りたい気持ちも小さくなるかと思ったが、そんな都合よくはなかった。
むしろ柵が遠ざかるほど、背中が寒くなる。
「あれが、緋角蜥蜴ですか?」
俺は道端に転がる赤い鱗を見つけて聞いた。
ゲラルトが拾い上げる。
指先で軽くこすり、匂いを嗅いだ。
「違う。これは火喰い蛇の抜け殻だ。緋角蜥蜴はもっと硬い。角の根元に熱を溜める筋がある」
「熱を溜める?」
ゲラルトは腰の袋から小さな骨片を取り出した。
緩やかに曲がった白い欠片。
「魔獣の骨や角には、空の力を拾いやすい形ってのがある。緋角蜥蜴の角は、その曲がりがいい。火の力を集めるのに向いてる」
「だから魔剣の素材に?」
「ああ。いい角なら、刃に熱を乗せやすい。炎を出すんじゃねえ。鉄の中に熱の通り道を作るんだ」
ゲラルトの声は、昨日までより少しだけ饒舌だった。
剣や素材の話になると、この人は急に機嫌がよくなるらしい。
「術師が淡い線を空に引くのと、魔剣は違うんですか」
「全然違う。術師はその場で道を描く。魔剣は、鉄の中に道を打ち込んでおく。だから速い。ただし、融通は利かねえ」
「道を打ち込む……」
俺は火掻き棒を見た。
黒い鉄の筒。
失敗作の芯材。
それでも昨日、魔術師の術に触れた。
普通の鉄なら弾かれるものに、引っかかった。
「こいつにも、その道があるんですか」
「少しな。失敗して歪んでるが」
「失敗作に命を救われました」
「よかったな。失敗にも使い道があって」
アイシャがくすっと笑う。
その笑いに少し気を抜いた瞬間、草むらが揺れた。
俺は足を止める。
何かがいる。
背の低い草の間を、小さな影が走った。
ウサギくらいの大きさ。
でも、背中に針みたいな棘が並んでいる。
「動くな」
ゲラルトの声。
俺は固まった。
棘のある獣が、こちらを見る。
目が赤い。
口元から、細い煙みたいなものが漏れていた。
「な、なんですか、あれ」
「棘鼠だ。小物だが、驚くと棘を飛ばす」
棘鼠が身を低くする。
背中の棘が、ぶわっと逆立った。
次の瞬間、ゲラルトが石を蹴った。
石は棘鼠の横の地面を叩く。
棘鼠は反射的にそちらへ棘を放った。
ぱぱぱっ、と乾いた音。
何本もの棘が土に刺さる。
その隙に、ゲラルトの魔剣が抜かれていた。
一閃。
棘鼠は悲鳴も上げずに転がった。
「……今の」
俺は息を吐いた。
「俺だったら、たぶん刺さってました」
「だから動くなと言った」
ゲラルトは棘鼠の死骸を拾い上げ、背中の棘を確認する。
「毒は薄い。肉は不味い。骨は使えん。捨てる」
「不味いんだ……」
「昔、師匠が焼いて食べて、三日くらい機嫌悪かったです」
アイシャが言った。
「食ったことあるんですか」
「何でも試す人なので」
ゲラルトは否定しなかった。
荒野をさらに進む。
太陽が高くなるにつれ、空気が乾いていった。
水袋の水がやけにうまい。
硬い黒パンは、相変わらず石みたいだった。
昼前、岩陰で休憩を取った。
アイシャが小さく指を切り、火打ち石で起こした火に、淡い線を添える。
血は空中に残らない。
けれど彼女の指先が動いた跡に、薄い赤金色の筋が一瞬だけ浮かび、火が息を吸うように強くなった。
俺の腹が、微かにざわつく。
下の曲がり角。
また少しだけ濁っていた。
言うべきか迷っていると、アイシャがこっちを見た。
「……また変でした?」
「少しだけ」
「どこですか」
「下。さっきよりはましだけど、火が出る直前に引っかかってました」
アイシャは悔しそうに唇を結び、もう一度同じ形を指でなぞった。
今度は、淡い線の流れが少しだけ滑らかになる。
「今の方がいいです」
「本当ですか?」
「たぶん」
ゲラルトが干し肉を噛みながら言った。
「たぶんで十分だ。こいつの腹は嘘をつかんらしい」
「俺の意思は?」
「お前の意思はよく迷う」
「ひどい」
でも、否定できなかった。
昼食の黒パンを水で無理やり流し込んでから、森へ向かう。
荒れ森。
名前の通り、綺麗な森ではなかった。
木々はねじれ、幹には黒い苔が張りついている。
枝の間には、蔓が絡んでいる。
入口に立っただけで、空気が重くなった。
「ここからは喋るな」
ゲラルトが低く言った。
「足元と左右を見ろ。上も忘れるな」
上。
俺は見上げた。
枝。
葉。
黒い実。
何かの巣。
どこから何が落ちてきてもおかしくない。
火掻き棒を握る手に汗がにじむ。
森に入ってしばらくすると、ゲラルトが膝をついた。
地面を指でなぞる。
焦げた草。
大きな爪跡。
そして、赤茶けた鱗が一枚。
「緋角蜥蜴だ」
アイシャが息を呑んだ。
「近いんですか?」
「半日前だな。まだ熱が残ってる」
俺もしゃがんで鱗を見た。
触れない距離でも、腹の奥がじわりと熱くなる。
確かに、火の気配がある。
炉の火とも、アイシャの術とも違う。
生き物の体内で、ずっと燃え続けていたような熱。
「すごい……」
「見えるか」
「見えるというより、胸が熱いです」
「なら覚えろ。そいつが緋角蜥蜴の気配だ」
ゲラルトは周囲を見回した。
「ただし、変だな」
「何がですか」
「足跡が乱れてる。追われてる」
「魔獣が?」
「ああ」
ゲラルトはさらに先を見た。
木の根元に、別の跡があった。
人間の足跡。
「赤竜の牙ですか」
アイシャが小声で言った。
「わからんが、その可能性はあるな」
ゲラルトの顔が険しくなる。
「誰かが、緋角蜥蜴を追ってやがる」
「素材狙い?」
「それもある。だが、そこらの奴がまともに狩れる相手じゃねえ。何か別の罠を使ってるかもしれん」
罠。
その言葉で、肩の傷が疼いた。
俺は火掻き棒を握り直した。
ゲラルトはどんどん森の奥に進む。
数時間進むと、足元がぬかるんできた。
所々に水たまりや小さな沼がある。
木の根も苔むしてきて、滑りやすく、歩きにくい。
アイシャが滑って沼に足を突っ込んでしまい、膝までドロドロになった。
森の奥へ進むほど、静けさを増してきた。
鳥の声がない。
虫の音もない。
風で葉が揺れる音だけが、妙に大きく聞こえる。
妙に静かになったら、走るな。伏せろ。
ゲラルトの言葉を思い出す。
すると、カピが初めて足を止めた。
俺にしか見えない角つきの守り番が、森の奥を見ている。
その丸い目が、ほんの少しだけ細くなった。
「どうした」
俺は小さく呟いた。
カピはすぐには答えなかった。
ただ、奥を見ていた。
その時だった。
森の奥から、笑い声が聞こえた。
人間の笑い声。
続いて、獣の低い鳴き声。
苦しそうな、喉を絞られたような声だった。
ゲラルトが手を上げる。
全員が止まる。
俺たちは茂みの陰へ身を沈め、ゆっくりと音の方へ近づいた。
木々の隙間から、小さな池の周りの開けた場所が見えた。
そこに、男たちがいた。
革鎧。
赤い布。
昨日見た野盗と同じ印。
赤竜の牙。
十人ほど。
その中央に、縄で縛られた大きな獣がいた。
丸い体。
短い脚。
濡れたような毛。
人を襲うようには見えない、穏やかな黒い目。
ただ、その体は傷だらけで、足には罠の鉄が食い込んでいた。
隣に立っていたカピの輪郭が、初めてぶれた。
そういえば捕まっている獣カピバラに少し似ている。
棒立ちだったその姿が、かすかに前へ傾く。
そして、頭の奥に、低い声が落ちた。
『……類似個体を確認』
その声には、今までになかった硬さがあった。
怒りなのか。
恐怖なのか。
それとも、もっと古い何かなのか。
俺には分からなかった。
ただ一つだけ分かった。
あの獣を見た瞬間、カピは明らかに変わった。




