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第6話 ジャンクパーツの胃袋

「透かし石を持ってこい」


ゲラルトの言葉に、アイシャは一瞬だけ動きを止めた。


それから、工房の奥の棚へ走る。


俺は腹を押さえたまま、嫌な汗をかいていた。


腹の中で、何かが軋んだ。


金属が肉の奥で擦れたような、小さな音。


聞き間違いだと思いたかった。


けれど、カピバラが言った。


『観測は推奨しません』


奥の空き棚の前。


角つきのカピバラは、相変わらず二本足で棒立ちしている。


動かない。


表情も変わらない。


なのに声だけが、頭の内側に落ちてくる。


「なんでだよ」


『猿の精神は脆弱です』


「余計なお世話だ」


『事実です』


「だから黙れって」


アイシャが棚から戻ってきた。


両手で抱えているのは、薄い石板だった。


大きさは手鏡くらい。


白く濁った水晶みたいな板で、表面には髪の毛ほど細い溝がいくつも刻まれている。


ただの石には見えない。


でも、昨日の魔術師みたいな派手さもない。


静かで、冷たい道具だった。


「寝ろ」


ゲラルトが作業台を顎で示した。


「え」


「腹を見る。仰向けだ」


「だから、本当に切らないんですよね?」


「しつけえな。切るならもう刃物を持ってる」


「安心できる要素がない」


「いいから寝ろ」


逆らえる雰囲気じゃなかった。


俺は作業台に横になった。


硬い。


肩に響く。


傷が痛む。


でもそれ以上に、腹の奥が気持ち悪かった。


ゲラルトは自分の親指を浅く切った。


赤い血が滲む。


それを透かし石の溝に薄く塗り込む。


血が宙に浮いたわけじゃない。


石の表面に刻まれた細い溝が、血を吸った途端、淡く光った。


淡い線。


赤とも金ともつかない、弱い光の筋が、石の中をゆっくり走る。


ゲラルトが低く呟く。


「開け」


透かし石の淡い線が、ふっと息をするみたいに明るくなった。


次の瞬間、その光が俺の腹へ落ちた。


「うっ……」


痛くはない。


でも、冷たい。


冬の川に腹だけ突っ込まれたみたいな感覚だった。


服の上から、光が染み込んでくる。


アイシャが息を呑んだ。


「……見えます」


「何が」


俺は起き上がろうとした。


ゲラルトに額を押さえられる。


「動くな」


「自分の腹を見られてる側なんですけど」


「だから動くな」


ゲラルトは透かし石を俺の腹の上にかざしながら、じっと覗き込んでいた。


アイシャも横から覗く。


二人の顔が、だんだん変わっていく。


困惑。


驚き。


そして、恐怖。


俺は喉が渇いた。


「……なんですか」


ゲラルトは答えない。


「何が見えてるんですか」


アイシャが青ざめた唇を震わせた。


「胃の……周りに……」


「胃?」


「黒いものが、たくさん……」


ゲラルトが石の角度を変える。


淡い線が俺の腹の上で揺れた。


その瞬間、俺にも見えた。


皮膚の下。


肉の奥。


透けた腹の中に、ぼんやりとした影が浮かんでいた。


肋骨。


内臓。


そこまでは、まだ分かる。


問題は、その下だった。


俺の胃袋の外側に、無数の黒い欠片がこびりついていた。


鉄屑。


薄い骨片。


砕けた鱗のようなもの。


針金みたいに細い金属の筋。


それらが胃の周りをぐるぐると取り囲み、肉と一緒に癒着している。


ただ飲み込んだものが腹に残っている、という感じじゃない。


もっと深い。


肉の中に入り込み、血管みたいに枝分かれして、背骨の方へ伸びている。


まるで、俺の腹の中に壊れた鍛冶場を詰め込んだみたいだった。


「……なんだよ、これ」


声が掠れた。


ゲラルトが低く言う。


「お前が食ったものだ」


「食った……?」


「二年間、お前は泥だけ食ってたわけじゃねえ。俺の工房の失敗作。魔剣の削りカス。魔獣の骨。古い遺跡の欠片。目につくものを片っ端から噛んで、飲み込もうとした」


アイシャが小さく頷く。


「止めても、すぐに口に入れて……手を噛まれたこともあります」


「……ごめん」


「今謝られても困ります」


そう言いながら、アイシャの声は震えていた。


俺は透けて見える自分の腹から目を離せない。


飲み込んだもの。


俺が、狂っていた二年間に。


泥水をすすって、鉄屑を噛んで、獣の骨まで飲み込もうとしていた。


その話は聞いた。


でも、ただの異常行動だと思っていた。


発狂した俺が、わけも分からずやっていたことだと。


違う。


腹の中のこれは、偶然のゴミ溜めなんかじゃない。


黒い欠片たちは、不気味なくらい決まった間隔で並んでいた。


まるで、誰かが内側から道を敷いたみたいに。


「普通なら死んでる」


ゲラルトが言った。


「鉄屑なんざ胃に刺さって終わりだ。魔獣の骨片は毒を持つものもある。古い遺跡の欠片なんざ、触っただけで熱を出す奴もいる」


「じゃあ、なんで俺は……」


「知らねえ」


即答だった。


でも、ゲラルトの目は俺の腹から離れない。


「知らねえが、見えてるものはある。お前の体は、それを吐き出すんじゃなく、包んだ。肉で巻き、血で濡らし、神経みてえな白い筋まで伸ばしてやがる」


透かし石の光が、腹の奥をさらに照らした。


胃の裏。


背骨の手前。


そこに、青白く光る小さな塊があった。


石だ。


親指の先ほどの、大きな石。


いや、石と言っていいのか分からない。


丸くはない。


欠けた宝石みたいな形をしている。


その周りに、鉄屑や骨片から伸びた細い筋が何本も絡みついていた。


白い神経のようなものも、そこへ集まっている。


塊は、かすかに脈打っていた。


とくん。


とくん。


俺の心臓とは違う速さで。


「……あれは」


ゲラルトの声が低く沈んだ。


「あの石だ」


「知ってるんですか」


「数日前、浅い遺跡で拾った。魔剣の芯材にできるかと思って、持ち帰ったやつだ」


俺は息を止めた。


「それを……俺が食った?」


「夜中にな。鎖を噛み切りそうな勢いで暴れて、棚を倒して、そいつを飲み込んだ。そしたら三日三晩、熱を出してのたうち回った」


アイシャが小さく言う。


「本当に、死ぬかと思いました」


「で、昨日起きた」


ゲラルトが続けた。


「初めて人間みたいに喋った」


頭の奥が、ざわついた。


青白い核。


それを飲み込んだ。


それから、俺は正気に戻った。


同時に、角つきのカピバラが見えるようになった。


俺はゆっくり視線を横へ向けた。


空き棚の前。


カピバラはまだ棒立ちしている。


「お前……これと関係あるのか?」


『無関係ではありません』


「じゃあ何なんだよ」


『お前の腹に宿る核が、お前の脳に見せている便宜上の姿です』


「便宜上がカピバラなの、どういう趣味だよ」


『高貴な姿です。猿の審美眼には期待していません』


「腹の中に変な石抱えたまま馬鹿にされるの、納得いかないんだけど」


アイシャが泣きそうな顔で俺を見た。


「また喋ってる……」


「ごめん、今それどころじゃない」


念じればカピバラに話しかけられるようだが、つい言葉が出てしまう。


俺は腹を押さえた。


でも、そこには皮膚と肉の感触しかない。


この下に、鉄屑がある。


骨片がある。


青白い核がある。


それが俺の肉と絡まっている。


考えた瞬間、胃の中身が逆流しそうになった。


「抜けるんですか」


俺は聞いた。


自分の声が、思ったより小さかった。


「これ、取れるんですか」


ゲラルトは答えなかった。


それだけで、だいたい分かった。


『摘出は推奨しません』


カピバラが言った。


『現在、お前の生命活動の一部は核と周囲の筋に依存しています。無理に外せば、高確率で狂うか、死亡します』


「……死ぬってこと?」


『平たく言えば』


「平たくしなくていい」


俺は笑おうとした。


失敗した。


腹の中に異物がある。


しかも、取ったら死ぬ。


俺の体は、もう元の人間の体じゃない。


日本で生きていた十四歳の俺の体でもない。


この世界で二年間、泥と鉄を食って、知らないうちに作り変わった体だ。


吐き気がした。


怖い。


気持ち悪い。


俺は俺なのか。


それとも、腹の中のこの核に動かされているだけなのか。


「……俺、人間なんですか」


気づけば、そう聞いていた。


アイシャが息を呑む。


ゲラルトは透かし石を下ろした。


淡い線の光が弱まり、俺の腹は普通の腹に戻った。


ただの痩せた腹。


傷だらけで、少しへこんだ腹。


その下に何が入っているかなんて、見た目では分からない。


ゲラルトはしばらく黙っていた。


それから、俺の額を指で軽く弾いた。


「痛っ」


「痛いか」


「痛いですよ」


「飯はうまかったか」


「……うまかったです」


「怖いか」


「めちゃくちゃ怖いです」


「なら人間だろ」


乱暴な答えだった。


でも、なぜか少しだけ呼吸が楽になった。


ゲラルトは続ける。


「腹の中が少しばかりイカれてるだけだ」


「少し……?」


アイシャが小声で言った。


「少しではないと思います」


「黙ってろ。慰めてる」


「それ慰めなんですか?」


俺もそう思った。


でも、ありがたかった。


ゲラルトは透かし石を布で拭いながら言う。


「お前の血は空の力を引かねえ。だから術は使えない。だが、腹の中のそれは別だ。魔獣の骨と鉄屑と古い核が、お前の肉で繋がってる。まるで、出来損ないの魔剣を腹に埋め込んだみてえにな」


「魔剣を、腹に……」


「それが周りの術の流れを拾って、お前の頭に痛みとして上げてるんだろう。昨日の死の幻も、その延長かもしれねえ」


「じゃあ俺の力って、魔法じゃなくて」


「ああ」


ゲラルトは俺の腹を見た。


「お前自身が、術を読む道具になってる」


その言葉は、重かった。


魔法が使えるわけじゃない。


勇者になったわけでもない。


俺の中にあるのは、二年間の狂気で飲み込んだ鉄屑と骨と、古い核。


それが俺を生かしている。


それが俺に、死の気配を見せている。


便利な力なんかじゃない。


俺の地獄そのものが、形になって腹の中に残っている。


『理解が進んだようですね』


カピバラが言った。


「お前はもうちょっと優しい言い方を覚えろ」


『優しさは生命維持に必須ではありません』


「人間関係には必須なんだよ」


『猿社会は不便です』


こいつ、本当に腹立つ。


「お前はいったい何なんだ、何を知ってる」


『・・・お前が人に利する存在か観察中です。最適化で情報も失われてしまいました』


「俺が悪い奴だってのか、最適化ってなんだよ」


『セキュリティに関わりますので黙秘します』


でも。


俺はもう一度、腹に手を置いた。


青白い核の鼓動は、直接は感じない。


けれど、どこか奥で何かが静かに熱を持っている気がした。


二年間。


俺は狂っていた。


泥を食った。


鉄を噛んだ。


骨を飲んだ。


その全部が、俺を壊しただけじゃなかった。


俺を、今日まで生かした。


そう考えると、吐き気の奥に、別のものが少しだけ残った。


認めたくない。


でも、認めるしかない。


俺は、これで生きている。


「ゲラルトさん」


「あ?」


「俺、これからどうすればいいんですか」


「決まってる」


ゲラルトは透かし石をアイシャへ返しながら言った。


「まず飯を食え。次に寝ろ。血が足りねえ。そして働け。腹の中身を考えるのは、その後だ」


「このあとは?」


「床掃除の続きだ」


「異世界、やっぱり厳しい」


「知らん言葉を使うな」


アイシャが少しだけ笑った。


ほんの少し。


でも、その笑いで、工房の空気が少しだけ緩んだ。


「なんにせよ、やっぱり俺の勘は当たったって事だ。こいつには何かある」


「師匠の勘のせいでわたし二年もお世話させられてたんですか」


「……ごめんね、そしてありがとうアイシャ」


俺は作業台の上で、深く息を吐いた。


肩は痛い。


腹は気持ち悪い。


頭の中には角つきカピバラ。


胸元には、この世界にいないはずのクジラ。


何一つ分からない。


でも、分かったこともある。


俺は魔法を使えない。


俺の血は空っぽだ。


その代わり、俺の腹の中には、泥と鉄と骨でできた、得体の知れない道がある。


そしてその道の奥で、青白い核が静かに鳴っている。


とくん。


とくん。


まるで、俺とは別の心臓みたいに。


その音に重なるように、カピバラの声が落ちてきた。


『生命活動、継続中』


「……知ってるよ」


アイシャがまた困った顔をする。


「師匠。この人、やっぱり大丈夫なんでしょうか」


ゲラルトは炉に鉄を戻しながら、面倒くさそうに言った。


「大丈夫じゃねえだろ」


「えっ」


「だが、生きてる」


炉の火が赤く跳ねた。


「剣でも人間でも生きてりゃ、鍛え直せる」


その言葉を聞いた瞬間。


腹の奥の青白い核が、かすかに熱を帯びた気がした。

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