第5話 血の導きと、空っぽの器
翌朝。
目が覚めた瞬間、俺は自分がまだ生きていることを後悔しかけた。
「いっ……」
肩が痛い。
熱い。
重い。
寝返りを打とうとしただけで、縫われた傷が内側から引っ張られる。
昨日の殺し合いは夢じゃなかった。
床板には、洗っても落ちきらなかった黒い染みが残っている。
血の跡だ。
野盗たちの死体はもうなかった。
どこへやったのかは、、今は聞きたくない。
「起きたか」
炉のそばで、ゲラルトが鉄を叩いていた。
昨日あれだけ戦ったくせに、もう働いている。
この世界の人間、頑丈すぎる。
「飯だ。食え」
差し出されたのは、木椀に入った粥のようなものだった。
湯気が立っている。
麦みたいな粒と、何かの肉の欠片が浮いていた。
「……泥じゃない」
「当たり前だ」
「いや、確認しとかないと」
「お前ぐらいしか、、泥なんか食わねえよ」
ゲラルトが鼻で笑う。が何か思案している。
笑えない。
俺は木匙を握った。
指がまだぎこちない。
でも昨日よりは動く。
ゆっくり口に運ぶ。
しょっぱい。
脂っぽい。
でも、うまい。
ちゃんと食べ物の味がする。
喉を通った瞬間、なぜか泣きそうになった。
聞きたいことは沢山あるが、今は匙が止まらない。
『栄養摂取は推奨されます』
頭の奥で声がした。
見ると、工房の奥。
空き棚の前に、角の生えたカピバラが立っていた。
二本足で。
昨日と同じ場所で。
昨日と同じ角度で。
まるで夜通しそこで立っていたみたいに。
「お前、寝ないのか」
『不要です』
「ずっとそこに立ってたのか」
『はい』
「怖いわ」
アイシャが水桶を運びながら、びくっと肩を揺らした。
「また見えてるんですか。その……角つきの何か」
「見えてる」
「私は見たくないです」
「俺もできれば見たくない」
『失礼な猿です』
「お前が言うな」
アイシャは完全に困った顔をした。
昨日までは俺のことを「狂った人」としておっかなびっくりお世話してくれていたらしい。
今日からは「見えないものと喋る人」として怖がられることになりそうだ。
進歩なのか、悪化なのか、分からない。
「食ったら床を洗え」
ゲラルトが言った。
「え?」
「床だ。血で滑る。客が来たら困る」
「怪我人なんですけど」
「片腕は残ってる」
「労働基準とかないんですか、この世界」
「知らん言葉を使うな。働け」
異世界、厳しい。
まだ、聞きたい事、確認したい事、沢山あるのに。
まあ聞いたからすぐ何かがどうこうなるわけでもないし、徐々に確認していくか。
結局、俺は右手だけで雑巾を握り、床板をこすることになった。
肩を動かすたびに痛む。
血の跡はしぶとい。
赤黒い筋が木目に入り込んで、いくら拭いても薄く残る。
昨日ここで、人が死んだ。
昨日ここで、俺も死にかけた。
その事実だけが、床の黒い跡みたいに頭の中へ残っていた。
「……よく平気ですね」
思わず呟いた。
ゲラルトは鉄を火に入れながら、こちらを見ない。
「平気なわけねえだろ」
「え」
「慣れただけだ」
短い答えだった。
それ以上、何も言わなかった。
俺も聞けなかった。
この世界で生きるって、たぶんそういうことなんだろう。
怖くなくなるんじゃない。
怖いまま、わからないまま、手を動かすしかない。
「アイシャ」
ゲラルトが呼んだ。
「炉の火、弱い。足せ」
「はい」
アイシャは袖をまくった。
そして、腰の小さな革袋から薄い刃を取り出す。
俺は雑巾を持ったまま固まった。
アイシャは迷いなく、自分の人差し指の腹を浅く切った。
ぷつり、と赤い血が滲む。
「え、何して――」
俺の声が止まった。
アイシャが指先を空中に滑らせる。
空中に、淡い線として残った。
細い線。
丸い輪。
尻尾みたいに伸びる一本の筋。
昨日、野盗の魔術師が描いていたものよりずっと小さい。
でも、同じだ。
血で描かれた形の周りに、空気が寄っていく。
炉の奥の火が、ふっと息を吸うみたいに揺れた。
「灯れ」
アイシャが小さく言った。
赤い輪の中心に、豆粒ほどの火が生まれた。
それが炉の薪へ飛び、ぱちんと弾ける。
火が強くなった。
ただの火起こし。
たぶん、この工房では日常の作業なんだろう。
けれど俺は、口を開けたまま見ていた。
「……血で、火をつけるのか」
アイシャが指を布で巻きながら、少し得意げに胸を張った。
「これくらい、鍛冶場の弟子ならできます。大きな術は無理ですけど」
「毎回、指切るの?」
「毎回じゃありません。小さい火なら、同じ傷で何度か使えます」
「痛くないの?」
「痛いに決まってるじゃないですか」
当たり前みたいに言われた。
この世界、魔法まで痛い。
もっと杖を振ったら光るとか、そういう優しいやつじゃないのか。
『血は導きの糸です』
カピバラが棒立ちのまま言った。
『この土地では、血で空の力を引き寄せます』
「空の力?」
『お前の理解に合わせた雑な言葉です』
「雑にするな、もっと優しくしろ!」
アイシャが不安げに俺を見る。
「本当に、誰と話してるんですか……」
「俺もそれ思ってる」
ゲラルトがこちらに歩いてきた。
手には、短い鉄棒と、薄い石板のようなものを持っている。
「小僧。今のが見えたか」
「見えました。淡い線が空中に残って、そこに火が……」
「そうじゃねえ」
ゲラルトは俺の前にしゃがんだ。
「線のどこが鳴って、どこが詰まってたか。見えたか」
鳴る。
昨日も感じた。
術の結び目。
頭痛になる場所。
俺はアイシャの描いた赤い輪を思い出す。
昨日の野盗の術ほどひどくはない。
けれど、一箇所だけ、少しだけ息苦しい場所があった。
「……下の曲がり角」
俺は自信なく言った。
「少し、詰まってた気がします。火が出る直前、そこだけ引っかかった」
アイシャがむっとした顔になる。
「えっ。私、ちゃんと描きましたけど」
ゲラルトはアイシャを見る。
「もう一回やれ」
「はい」
アイシャは少し唇を尖らせながら、また指先の血で小さな輪を描いた。
今度はゆっくり。
丁寧に。
赤い線が空中で形を結ぶ。
やっぱり、下の曲がり角。
ほんの少しだけ、線が太い。
そこだけ火の息が濁る。
「そこ」
俺は思わず言った。
「今、少し膨らんだ」
「膨らんだ?」
アイシャが手を止める。
その瞬間、赤い輪がぶるっと震えた。
小さな火花が散る。
「きゃっ」
アイシャが指を引っ込めた。
火花はすぐに消えた。
大したことはない。
けれど、アイシャの顔から血の気が引いていた。
ゲラルトは低く唸る。
「……確かに、線が寝てたな」
「寝てた?」
「角度が甘い。血が通る時に抵抗になる。火起こしくらいなら問題ねえが、炉を熱する術なら弾ける」
アイシャは悔しそうに俯いた。
「昨日のことで手が震えて……」
「震えても描け。震えるなら、震えた線で通る形を覚えろ」
「はい……」
厳しい。
でも、ゲラルトの声に怒りはなかった。
たぶん、これも鍛冶場の日常なんだ。
血を流して、線を描いて、失敗して、覚える。
俺は自分の右手を見た。
泥の詰まった爪。
薄い傷だらけの指。
昨日までは、得体の知れない身体だと思っていた。
でも、この世界で魔法が血で動くなら。
俺にも、もしかして。
「俺も、できますか」
口に出した瞬間、アイシャとゲラルトが同時に俺を見た。
「昨日まで泥食べてた人が?」
アイシャが素直に失礼なことを言う。
「昨日からは食べてない」
「一日しか経ってません」
「反論できない」
ゲラルトは少し考えた後、薄い刃を俺へ放った。
「やってみろ、火を出せとは言わん。血が応えるか見るだけだ」
俺は刃を受け取った。
指先に当てる。
昨日、肩を斬られた痛みに比べれば、こんなの大したことない。
そう思ったが、普通に怖い。
「早くしてください」
アイシャが言った。
「分かってる」
俺は息を止め、指先を少し切った。
赤い血が滲む。
自分の血だ。
当たり前だけど、赤い。
俺はアイシャの真似をして、空中に指を滑らせた。
血の滴が落ちた。
床に。
「……」
「……」
「……もう一回」
俺は指を強く押して、血を出す。
今度はゆっくり空中をなぞる。
落ちた。
ぽたり。
何の形にもならず、ただ床板を汚した。
アイシャが困った顔をする。
「えっと……最初は皆、そんなものです」
優しい嘘だった。
たぶん。
俺はもう一度、指を動かした。
昨日見た血の輪を思い出す。
アイシャの小さな火の輪を思い出す。
下の曲がり角。
息の通り道。
頭の中では分かる。
こう描けばいい。
ここを絞れば、火が集まる。
ここを開けば、熱が逃げる。
なのに。
俺の血は、何もしなかった。
空気が揺れない。
火が寄ってこない。
頭痛すらしない。
ただの血だった。
「……なんで」
小さく呟いた。
昨日は、術の気持ち悪い場所が分かった。
死ぬ未来も見た。
火を避けることもできた。
なのに、自分で魔法を起こそうとした途端、何も起きない。
『当然です』
カピバラが言った。
『お前の血は空に響きません』
「黙れ」
『事実です』
「黙れって」
自分でも驚くくらい、声が低くなった。
アイシャがびくっとする。
ゲラルトは何も言わず、俺の指先を掴んだ。
親指で血を広げ、じっと見た。
次に、俺の血をどこからか持ってきた薄い石板に垂らす。
石板には、細い溝がいくつも刻まれていた。
ゲラルトは自分の親指も軽く切り、その血を別の溝へ落とす。
ゲラルトの血は、溝の中でかすかに赤く光った。
アイシャの血も、弱く光る。
俺の血だけが、ただ黒っぽく滲んでいる。
何もない。
沈黙。
ゲラルトが低く言った。
「通らねえな」
「通らない?」
「血が、空の力を引かねえ。この世界の人間なら、魔術師じゃなくても爪の先くらいは鳴る。魔獣の骨ですら鳴る」
ゲラルトは石板の上の俺の血を見下ろした。
「だが、お前の血は完全に黙ってる」
「……俺は、魔法が使えないってことですか」
「そうだ」
即答だった。
少しくらい濁してほしかった。
胸の奥が、妙に冷えた。
異世界に来た。
謎の力もある。
頭の中に変なカピバラもいる。
なら、自分にも何か特別な魔法があるんじゃないか。
どこかで、そう期待していた。
でも現実は、違った。
俺の血は、この世界に何も呼べない。
俺は魔法を使えない。。
むしろ、普通の人よりもずっと空っぽらしい。
せっかく異世界に来たのにむしろ普通よりハンデを背負っているらしい。
「……空っぽ、なんですね」
自分で言って、少し笑いそうになった。
笑えなかった。
ゲラルトは俺を見る。
「落ち込むのは早い」
「いや、落ち込みますよ。異世界に来て魔力ゼロって」
「また知らん言葉を混ぜるな」
ゲラルトは石板を置いた。
「お前は術を使えねえ。だが、昨日お前は術の首を見た。アイシャの線の詰まりも見た。血は空っぽでも、目は普通じゃねえ」
目。
いや、目なのか。
あれは頭痛だった。
もっと奥。
脳の裏を、爪でなぞられるみたいな感覚。
昨日の死の幻もそうだ。
体のどこかが、勝手に危ないものを拾っている。
「小僧」
ゲラルトの声が少し低くなった。
「昨日、術の結び目を見た時。どこが痛んだ」
「頭です」
「それだけか」
俺は答えようとして、止まった。
違う。
頭だけじゃなかった。
肩の痛みに隠れていたけど、あの時。
火の輪が膨らんだ時。
腹の奥が、熱くなった。
胃の裏側を、冷たい虫が這うみたいな感覚があった。
「……腹も」
俺が言うと、ゲラルトの目が鋭く俺の腹を凝視する。
俺は思わず腹を押さえる。
ゲラルトはアイシャへ目を向けた。
「透かし石を持ってこい」
アイシャの顔色が変わる。
「師匠、本気ですか?」
「ああ」
「でも、あれは魔獣の骨を見る時の……」
「人間の腹に、魔獣の骨より面倒なもんが入ってるかもしれねえ」
俺は嫌な汗をかいた。
「ちょっと待ってください。腹を見るって、切るんですか」
「切らねえ」
「本当に?」
「たぶんな」
「たぶん!?」
ゲラルトは俺の腹を見下ろした。
炉の火が、その目の奥で赤く揺れている。
「血が空っぽなのに、術の流れが見える。普通じゃねえ」
低い声で、彼は言った。
「なら、お前を動かしてる何かは、血の中じゃなく――腹の中にある」
その瞬間。
俺の腹の奥で、かすかに何かが軋んだ。
金属が、肉の中で鳴るような。
小さな、小さな音だった。




