第4話 幻獣のキーホルダー
「なぜお前が幻獣の絵を持っている。それはどこで手に入れた」
ゲラルトの声は、さっきまで野盗を殴り倒していた時よりも低かった。
怒鳴っているわけじゃない。
けれど、怖い。
炉の火よりも、床に転がった死体よりも、その目のほうが怖かった。
俺は反射的に、胸元の小さな青い飾りを握りしめた。
安っぽいプラスチックの感触。
泥と血で汚れているのに、その丸い形だけは、どうしようもなく見覚えがあった。
「これは……」
声が喉に引っかかった。
頭の奥に、薄い記憶がよみがえる。
青い水槽。
ガラスの向こうをゆっくり泳ぐ巨大な影。
売店の明るい照明。
小さな俺の手。
誰かが笑って、これを買ってくれた。
父さん。。
思い出そうとした瞬間、胸の奥がきゅっと潰れた。
「クジラ、です」
「くじら?」
アイシャが聞き慣れない言葉を繰り返した。
ゲラルトの眉間に、深い皺が刻まれる。
「生き物の名前か」
「はい。俺のいたところでは、海にいる……でかい生き物で」
「魚か」
「いや、魚じゃなくて。獣です」
「獣が、海にいるのか」
ゲラルトの声が少し変わった。
馬鹿にしている声じゃない。
職人が、ありえない形の刃を見た時みたいな声だった。
「はい。息を吸うし、子供に乳をやる。すごく大きくて、でも人を襲うような感じじゃなくて……」
「待て」
ゲラルトが片手を上げた。
「鱗は」
「ないです」
「エラは」
「ないです」
「脚は」
「ないです。代わりに、ひれがあって」
「尾は横に振るのか」
「え?」
「魚の尾は横に振る。獣の背骨は上下にしなる。お前のその絵は、尾が横じゃねえ。上下に振る形だ」
俺は思わず、手の中のキーホルダーを見た。
青い体。
小さな胸びれ。
横に広がった尾びれ。
言われてみれば、確かに。
ゲラルトは目を細めたまま続ける。
「魚の皮を被った獣だ。そんな骨格の生き物は、この大陸にはいねえ」
その言い方に、背筋が冷えた。
「……いない?」
「ああ。少なくとも俺は聞いたことがない。魔獣の骨なら腐るほど割ってきた。砂を泳ぐ奴も、沼に潜る奴も、空を飛ぶ奴もな。だが、獣の体のまま水に棲むものなんざ聞いたことがない」
アイシャが小さく首を傾げる。
「でも、師匠は幻獣って……」
「見たことはある」
「??」
ゲラルトは、俺の胸元のクジラから目を離さなかった。
「本物じゃねえ。絵だ」
「絵?」
「古い遺跡の壁に刻まれていた。王都の学者どもは、神代の幻獣だの、星の海を泳ぐ守り神だの、好き勝手に呼んでいた」
古い遺跡。
その言葉が、妙に重く響いた。
「俺を拾った時、お前はドブの中でこいつを握りしめてた。泥を食いながら、鉄屑を噛み砕きながら、それだけは絶対に手放さなかった」
ゲラルトは俺の手元を顎で示した。
「だから捨てなかった。幻獣の絵を持った狂いガキなんざ、さすがに気になるだろうが」
「……それが、拾った理由ですか」
「半分はな」
半分。
じゃあ、もう半分は。
そう聞こうとして、やめた。
さっき言っていた。
生きようとしていたから。
胃袋が焼けても、泥と鉄を食っていたから。
俺は、手の中のクジラを強く握った。
この世界にはいない生き物。
けれど、古い遺跡には刻まれている生き物。
俺の記憶の中では、当たり前に水槽を泳いでいた生き物。
異世界に来た。
最初にそう思った時は、どこか浮かれていた。
けれど今、胸の奥に沈んできたのは、浮ついた興奮じゃなかった。
もっと冷たいものだ。
俺の世界と、この世界は、完全に無関係じゃない。
少なくとも、この青いクジラだけは、二つの世界を繋いでいる。
「おい」
ゲラルトが言った。
「お前、自分がどこから来たか分かるか」
俺は口を開いた。
日本。
そう言おうとした。
けれど、この言葉が、この工房でどんな意味を持つのか分からなかった。
この世界の地図に、日本なんてあるはずがない。
「……遠いところです」
「遠い?」
「たぶん、この大陸にはない」
「海の向こうか」
「分かりません」
嘘ではなかった。
俺自身、何も分かっていない。
車のライトのあと、どうして俺がこの世界に来たのか。
なぜ二年間も狂っていたのか。
なぜ頭の中に、あんなものがいるのか。
わからない事、聞きたいことが多すぎて何をどうすれば良いのか頭がまとまらない。
さっきの敵はなんだったんだ、死体が転がっていてよく平気でいられるなこの人たち。
ただ今現在一番気になるのは、、
俺は視線を、工房の奥へ向けた。
剥製や骨が並ぶ棚の前。
そこに、角の生えたカピバラが立っていた。
二本足で。
棒立ちで。
つぶらな目でこちらを見ている。
まるで自分はこの惨状に一切関係ありません、という顔で。
「……ところで」
俺は震える声で言った。
「あそこにいる角つきの動物は、何なんですか」
ゲラルトとアイシャが、怪訝な顔で同時にそちらを見た。
少しの沈黙。
それから、アイシャが不安そうに俺を見た。
「……何も、いませんけど」
「え」
「そこ、空き棚です」
ゲラルトも眉をひそめた。
「お前、やっぱりまだ頭が戻りきってねえんじゃねえか」
「いや、いるんですよ! さっき動いたし、喋ったし!」
『私は喋っていません』
頭の内側に、あの冷たい声が響く。
『お前の未熟な頭が、私の意を勝手に言葉にしているだけです。猿にありがちな誤解です』
「うるせえな棒立ちカピバラ!」
俺が叫ぶと、アイシャが一歩引いた。
「師匠……やっぱりこの人、まだ……」
「戻った直後だ。妙なものが見えても不思議じゃねえ」
「不思議じゃねぇで済ませていいんですか!?」
アイシャが半泣きで言う。
俺も同じ気持ちだった。
自分にしか見えない角つきカピバラ。
三息先の死を見せる謎の声。
そして、異世界の古代遺跡に刻まれているらしいクジラ。
もう情報が多すぎる。
頭痛が戻ってきた。
いや、肩の傷も痛い。
むしろ全部痛い。
「話は後だ」
ゲラルトが俺の襟首を掴んだ。
「血が出すぎてる。縫うぞ」
「縫う?」
「噛め」
そう言って、革紐を口に押し込まれた。
「待っ、心の準備が――」
「要らねえ」
次の瞬間、傷口に酒らしきものをぶっかけられた。
「んぐううううううっ!」
声にならない声が喉で潰れた。
痛い。
さっき剣で斬られた時も痛かったが、これはまた別の痛みだ。
傷の奥に火を流し込まれたみたいだった。
アイシャが慌てて俺の肩を押さえる。
「動かないでください! 曲がります!」
「何が!?」
「縫い目が!」
知りたくなかった。
ゲラルトは太い指に似合わない手つきで、手早く傷を縫っていく。
見たくないのに、針が肉を通る感触だけははっきり分かった。
俺は革紐を噛みしめながら、涙目で天井を見る。
その間も、カピバラは棒立ちだった。
『猿の耐痛性能は低いですね』
こいつ、絶対いつか殴る。
心の中でそう誓った。
縫合が終わる頃には、俺は汗だくになっていた。
肩は分厚い布でぐるぐる巻きにされ、左腕はまともに上がらない。
アイシャも顔色が悪かった。
さっき野盗を金槌で殴った手が、まだ震えている。
「……ありがとう」
俺が小さく言うと、アイシャは目を瞬かせた。
「え?」
「さっき、助けてくれて」
「そ、それは……師匠の工房で勝手に死なれたら困るからです」
そう言いながら、アイシャは視線を逸らした。
耳だけ少し赤い。
「あと、まだお礼を言われるほど助けてません。あなた、ほとんど自分で勝手に変なことしてましたし」
「変なことって、あれは必死で……」
「胃から水を戻して鉄の筒で吹く人、初めて見ました」
「俺も初めてやったよ」
「汚い、、」
「くっ、、」
たぶん二度とやりたくない。
ゲラルトが、焦げた鉄パイプを拾い上げる。
「炉に水を吹き込んで蒸気を爆ぜさせたのか」
現代知識無双かと思ったが、どの世界でも鍛冶屋なら常識的に知っている事かもと考えなおした。
「たまたまです」
「たまたまで敵を吹っ飛ばすな」
「俺が一番びっくりしてます」
「神聖な炉になんて事しやがる、汚い、、」
「くっ、、」
ゲラルトは少しだけ口元を歪めた。
笑った、のかもしれない。
すぐに真顔へ戻ったが。
「小僧」
「はい」
「お前には聞きたいことが山ほどある。幻獣の絵。見えねえ獣。術の結び目を見抜く目。二年間、鉄と泥を食って生きてた理由」
ゲラルトは一つずつ数えるように言った。
「だが、お前自身も何も分かってねえ顔をしてる」
「……はい」
「なら、ここで働け」
俺は目を瞬かせた。
「え?」
「食わせてやる。寝床もやる。その代わり、働け。床掃除でも炭運びでも、炉の番でも何でもやらせる」
「いや、でも俺、さっき起きたばっかりで」
「だから今すぐとは言ってねえ。明日からだ」
「明日から」
早い。
異世界の労働開始が早すぎる。
でも、文句を言える立場じゃなかった。
二年間、狂った俺の食事の世話から下の世話までしてくれたそうだし。
行く場所なんてない。
知り合いもいない。
この世界の常識も分からない。
それに。
俺は胸元のクジラを見下ろした。
なぜ、俺の世界の生き物が、この世界の古い遺跡に刻まれているのか。
なぜ、俺は二年間も泥を食って生きていたのか。
なぜ、俺にだけあの角つきカピバラが見えるのか。
知りたい。
怖いけれど、知らないままではいられなかった。
「……置いてください」
俺は言った。
「働きます。何ができるか分からないけど、覚えます」
ゲラルトは俺をじっと見た。
炉の火が、その横顔を赤く照らしている。
「いいだろう」
ぼそりと、彼は言った。
「死にかけのくせに、まだ先を見ようとしてやがる」
「褒めてます?」
「少しな」
少しか。
まあ、今はそれで十分だった。
アイシャが不安そうに俺を見る。
「本当に大丈夫なんですか? この人、また泥を食べたり戻したりしません?」
「しません!」
『状況によっては不明です』
「黙れカピバラ!」
「だから誰と喋ってるんですか!」
アイシャが叫ぶ。
ゲラルトは面倒くさそうに頭をかいた。
「先が思いやられるな」
まったくだ。
俺は血と煤と酒の匂いに包まれたまま、深く息を吐いた。
異世界に来た。
でも、そこにあったのは夢みたいな冒険じゃなかった。
泥。
鉄。
血。
痛み。
そして、胸元で揺れる小さな青いクジラ。
俺はそれを握りしめる。
帰り道があるのかどうかは分からない。
けれど、このクジラが何かに繋がっているなら。
この世界で、俺はそれを探すしかない。
そう思った。
その翌日。
俺は初めて知ることになる。
この世界の魔法が血で動くこと。
そして、俺の血が――何一つ、魔法に応えないことを。




