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第2話 獣が見せる未来

「奥のガキども、逃がすな」


ゲラルトに向かって切りかかりながら、先頭のリーダーっぽい男が指示を出した。


その声に反応し、横にいた痩せた男が工房内にかかっていたうっすら光る剣をかっさらい、踏み込んできた。


泥のついた革靴。


血で濡れた袖。


薄く光る刀身がなまめかしい。


全部がやけに鮮明に見えた。


なのに、俺の身体は動かなかった。


アイシャが俺の腕を掴んでいる。


「こ、こっちへ……!」


逃げなきゃいけない。


そんなことは分かっている。


でも、男が剣を手に取った途端頭痛がした。


二年間まともに動かしていなかったからか、足も俺の命令を聞かない。


「悪く思うなよ」


痩せた男が剣を横に払った。


その瞬間。


世界の音が、消えた。


――見えた。


俺の首が裂けていた。


赤いものが喉から噴き出し、俺は自分の血で濡れた床板に倒れている。


目の前には、さっき吐いた赤黒い泥水。


それに自分の血が混ざって、どろどろと広がっていく。


アイシャが叫んでいる。


ゲラルトが何かを怒鳴っている。


でも、俺の耳には何も届かない。


息ができない。


喉が熱い。


熱いのに、指先だけがどんどん冷たくなっていく。


死ぬ。


いや。


死んだ。


そう思った瞬間、妙なものが動いた。


奥の剥製と思っていた角の生えたカピバラが二本足で立ちあがってこちらを見た。


丸い顔。


つぶらな目。


太い胴体。


鹿のような角。


「……は?」


俺が間抜けな声を漏らすと、そいつは感情のない目で俺を見た。


『三息後、お前は死ぬ』


頭の内側に、声が響いた。


耳で聞いたんじゃない。


骨の奥に直接、冷たい針を刺されたみたいな声だった。


「誰だよ、お前」


『問いは不要。猿は動け』


猿。


今、猿って言ったか?


そう思った次の瞬間、音が戻った。


目の前で、痩せた男の剣が振られていた。


さっき見た通りの角度。


さっき見た通りの速さ。


俺は反射で、左へ倒れ込んだ。


「ぐっ――!」


刃が首を通るはずだった場所を抜ける。


代わりに、肩が裂けた。


熱い。


痛い。


痛いなんてもんじゃない。


焼けた鉄を押し当てられたみたいな熱が、肩から背中まで走った。


床に転がった俺の口から、勝手に悲鳴が漏れる。


「ぎ、ああっ……!」


「ちっ!」


痩せた男が目を剥いた。


アイシャも、ゲラルトも、一瞬だけ固まっていた。


俺自身が一番驚いていた。


今のは、なんだ。


夢?


幻?


いや、違う。


肩の痛みが、現実だと叫んでいる。


さっき見た死体は、確かに俺だった。


俺は三秒先で、一度死んでいた。


「小僧」


ゲラルトが対面するリーダーを横殴りにし、距離を取らせた後、こちらに剣を振った。


すると、俺を攻撃していた痩せた男が後ろに飛びすさった。


涙が出る。


痛みで視界がにじむ。


でも、生きていた。


首は繋がっている。


肩から血が流れているだけだ。


だけ、と言える量じゃないけど。


「おいおい、面白えな」


先頭の男が、にたりと笑った。


「昨日まで床下で鳴いてた泥食い汚物が、刃を避けたぞ」


「偶然だろ」


痩せた男が唾を吐く。


その目に、さっきまでの余裕はなかった。


苛立ち。


焦り。


そして、殺意。


「次は外さねえ」


男がもう一度踏み込もうとした瞬間、ゲラルトが動いた。


大剣が、唸った。


ただ振っただけに見えた。


でも、空気が焼けた。


刃の根元に埋め込まれた白い牙のような欠片が赤く脈打ち、剣の周りに火の粉が走る。


「俺の工房で、俺の拾い物に手ぇ出すな」


ゲラルトの一撃を、先頭の男がぎりぎりで受けた。


鉄と鉄がぶつかった音ではなかった。


もっと重い。


岩が割れるような音。


衝撃で、壁に吊るされていた骨がかたかた鳴った。


「相変わらず馬鹿力だな、ゲラルト!」


「喋ってる暇があるなら、歯ぁ食いしばれ」


ゲラルトがもう一歩踏み込む。


その背中は、でかかった。


さっきまで怖かった男たちが、少しだけ小さく見えた。


だが、敵は三人だけじゃない。


扉の外から、さらに二人が入ってくる。


そのうちの一人が、手袋を噛みちぎった。


露出した指先を短剣で裂く。


血が滴る。


その男は、空中に指を滑らせた。


赤い線が、宙に残った。


俺は息を呑んだ。


血で、文字を書いている。


いや、文字というより、複雑な輪だ。


細い線が絡まり、結び目を作り、そこへ周囲の空気が吸い寄せられていく。


炉の火が揺れた。


赤い輪の中心に、小さな火の粒が灯る。


「魔術師……!」


アイシャの声が裏返った。


「野盗に魔術師がいるなんて……!」


「三流だ」


ゲラルトが先頭の男を押し返しながら吐き捨てる。


「だが、この人数じゃ厄介だな」


血の輪が大きくなる。


頭痛がひどくなる。


あれはまずい。


理屈は分からない。


でも、空気が変わっていた。


肌がひりつく。


肩の傷口が、火に近づけられたみたいに疼く。


アイシャが俺を引っ張る。


「立って! 奥に逃げて!」


「む、無理……足が……!」


身体が動かない。


肩が痛い。


足に力が入らない。


さっきのカピバラに向けて、俺は頭の奥へ呼びかけた。


おい。


さっきの丸い獣。


いるなら、もう一回助けろ。


『無理です』


すぐに返事があった。


『今のお前の器では、一度に一つの死相しか映せません。先ほどの一度で精一杯です』


「使えねえ!」


『猿にしては贅沢な要求です』


そもそもなんなんだあのカピバラは。


考えることが多すぎる。


でも、血の輪は待ってくれない。


魔術師の男が笑った。


「燃えろ」


赤い輪の中心で、火が膨らんだ。


アイシャが俺の前に立とうとした。


震えているくせに。


顔を真っ青にしているくせに。


それでも、俺を庇おうとしていた。


「どけ、アイシャ!」


ゲラルトが叫ぶ。


でも、間に合わない。


俺は床を掴んだ。


指先に、何か硬いものが当たる。


炉のそばに転がっていた、黒い鉄の筒。


剣ではない。


たぶん、炉をかき回すための道具だ。


日本で見たものに近い形で言うなら、鉄パイプ。


ふいごも兼ねているのか、細身だが今の俺には重い。


冷たい。


血で濡れた手では滑る。


それでも俺は、それを握った。


握るしかなかった。


異世界に来たら、もっと分かりやすい力が手に入ると思っていた。


いや、どうやら危険を教えてくれるカピバラはいるようだがもう使えないらしい。


勇者の剣とか。


すごい魔法とか。


神様からの説明とか。


もっとくれ!


あるのは、動かない身体。


頭痛がひどい頭。


裂けた肩。


角のついたカピバラ。


そして、床に転がっていた細身の鉄パイプ一本。


火の粒が、こちらを向く。


三秒先の死体が、脳裏に焼きついて離れない。


俺は奥歯を噛みしめた。


もう一度、あんなふうに死ぬのは御免だ。


「アイシャ、伏せろ」


声が震えた。


それでも、言えた。


アイシャが目を見開く。


俺は血まみれの手で鉄パイプを握り直し、燃え上がる血の輪を睨んだ。

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