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第1話 16歳の目覚めと、赤い泥水

最初に戻ってきたのは、視界ではなかった。


味だった。


鉄錆。泥。


古い血を溶かしたような、生温い水の味。



「……っ、げほっ」


喉の奥から何かがせり上がり、俺は横向きに倒れ込んだ。


床板に置かれていた欠けた木椀へ、赤黒い泥水がびちゃりと落ちる。


それを見た瞬間、胃袋がもう一度ひっくり返った。


「お、吐いたか」


低い声がした。男の声だ。


やけに近い。


俺は涙でにじむ目をこすりながら、ゆっくり顔を上げた。


そこは、病院ではなかった。


白い天井も、蛍光灯も、消毒液の匂いもない。


あるのは、煤で黒ずんだ梁。


壁に吊るされた無数の剣。


獣の骨みたいなもの。


炉の奥で赤々と眠る火。


ハンマーや、鉄の棒などが雑然と転がっている。


そして、鉄と脂と血が混ざったような、重たい匂い。


……鍛冶屋?



いや、ただの鍛冶屋じゃない。


広い室内にはなんだかわからない生き物の死骸の一部や剥製のようなものが沢山ある。


うろこが棘上になった巨大なトカゲ、翼の生えたライオン、鼻が3つある象、角の生えたカピバラ。


また、壁に掛かった剣のいくつかは、暗い室内でもうっすら光っていた。


刃の奥に、火の粉を閉じ込めたみたいに。


俺は思わず息を呑む。異世界..?


そう思った瞬間、泥をリバースして最悪だった気分が馬鹿みたいに跳ねた。



最後の記憶は、たしか日本だった。


夕方の道路。


部活帰りのバッグ。


濡れたアスファルト。


車のライト。


そこから先が、ない。



なら、これは。


もしかして、異世界に――


「珍しく浮かれた顔してるな、泥食い小僧」


さっきの低い声が、俺の思考をぶった切った。


声の主は、炉のそばに立っていた。


でかい男だった。


灰色混じりの髪を後ろで雑に束ね、分厚い革の前掛けをつけている。腕は丸太みたいに太く、顔には古傷が走っていた。


その目だけが、妙に鋭い。


「……ここ、どこですか」


口から出た言葉に、俺自身が固まった。


日本語じゃない。


なのに意味が分かる。


舌が勝手に、その知らない言葉を形にしていた。


相手も返事を期待していた訳ではなかったらしい。


ビックリしたように男は眉を動かした。


「へえ。はじめてまともに喋りやがった」


その横で、何かががたんと落ちた。


見ると、俺と同じくらいの年頃の少女が、手にしていた金槌を床に取り落としていた。


煤で汚れた頬。


短く結んだ栗色の髪。


ぶかぶかの革前掛け。


少女は俺を指差し、震える声で言った。


「し、師匠……! この人、喋ってます! ちゃんと、人間みたいに!」


「人間みたいにってなんだよ」


反射的に言い返してから、俺は自分の声にまた驚いた。


喋れる。


聞ける。


身体も動く。


けれど、何かがおかしい。


俺は自分の手を見た。


いつもの見慣れた手じゃなかった。


指は黒ずんで、節が固くなっている。掌には知らない傷跡があった。爪の間には、どれだけ洗っても落ちなかったような泥が詰まっている。


俺の手じゃない。指を開こうとしたが、固まってギギギと音がなりそうにぎこちなく開いた。


いや。


俺の手、なのか?


「鏡……ありますか」


俺が呟くと、少女がびくっと肩を揺らした。


男は無言で、壁に立てかけてあった磨いた鉄板を渡してくれたが、


ぎこちない手で受け止め損ねて、鉄板が膝に当たる。


「痛っ……!」


「大丈夫、、そうじゃねえな」


男が鼻で笑う。


俺は震える手で鉄板を持ち上げた。


映っていたのは、知らない少年だった。


黒い髪はぼさぼさに伸び、頬はこけている。目だけが妙にぎらついていて、病人みたいに青白い。


見慣れた自分の姿ではなかった。


「……俺、なんでここに、、」


「お前を拾ったのが二年前だ。」


二年前。


頭の中で、その数字だけが変に響いた。


「拾った?」


「雨の夜、街外れのドブにいた。赤い泥水すすって、鉄屑噛んで、獣の骨まで飲み込もうとしてた。目は焦点が合ってねえ。火を見りゃ悲鳴を上げる。人の声を聞きゃ耳を塞いで転げ回る。ありゃ呪いかと思ったぜ」


少女が小さく頷いた。


「昨日まで、ずっと……『来るな』とか、『痛い』とか、そればっかりで……」


「嘘だ」


俺は即座に言った。


けれど、声は弱かった。


嘘だ、と言い切れるだけの記憶が、俺にはなかった。


日本の記憶はある。


十四歳、、だったはずだった。


家も、学校も、コンビニの明かりも、スマホの画面も、母親の声も。


でも、それは全部、薄い膜の向こうにあるみたいだった。


代わりに残っているのは、口の中の鉄錆の味。


泥水をすする感触。


喉を傷つけながら、何か硬いものを飲み込んだ痛み。


「……俺は、今日ここに来たんじゃ」


「ねえよ」


男は短く切り捨てた。


「お前は二年前からここにいる。俺の工房の床下で寝て、うめいて、吐いて、また泥を食おうとした」


「なんで、そんな奴を生かしてたんですか」


自分で聞いておいて、喉が詰まった。


もし俺が本当にそんな化け物みたいな状態だったなら、普通は捨てる。


関わらない。


殺されても文句は言えない。


男は炉の火をちらりと見た。


「死にたがってる奴は放っとく。面倒だからな」


そして、俺を見る。


「だが、お前は違った。狂ってたくせに、生きようとしてた。胃袋が焼けても、歯が折れても、泥と鉄を食ってやがった。あそこまでみっともなく生にしがみつくガキは、そういねえ」


低い声だった。


優しくはない。


けれど、嘘でもなかった。


「それに気になる事もあってな。。まあそっちが本命といや本命だが。 俺はゲラルト。この魔剣工房の主だ」


男――ゲラルトは、親指で少女を指した。


「そっちはアイシャ。俺の弟子。お前の世話でだいぶ迷惑してるから、あとで礼でも言っとけ。飯を口に突っ込んだり、下の世話をしたり、一生頭上がらねえぞ」


「め、迷惑っていうか……怖かったですけど」


アイシャは俺から半歩離れたまま、小声で言った。


「でも、死ななくてよかった、とは……思います」


その言葉が、妙に刺さった。


俺は何かを言おうとして、やめた。


「まあひとまずこれ飲んで落ち着け。」


ゲラルトに差し出された水をがぶ飲みすると、口の中の鉄臭さがかなり軽減された。


自分の名前を名乗ろうとした。


けれど、その日本の名前は、この煤けた工房の中ではひどく頼りなく思えた。


俺はいったい、誰なんだ。


日本で死んだ十四歳の俺なのか。


この世界で二年間、泥を食っていた十六歳の俺なのか。


考えるほど、頭の奥がじくじく痛んだ。


その時だった。


外で、何かが割れる音がした。


続いて、怒鳴り声。


馬のいななき。


鉄を引きずる音。


アイシャの顔から血の気が引く。


「師匠……」


「下がってろ」


ゲラルトは、壁に立てかけてあった無骨な大剣を片手で掴んだ。


ただの剣じゃない。


刃の根元に、魔獣の牙みたいな白い欠片が埋め込まれている。その周囲の鉄が、炉の火を受けてもいないのに、赤く脈打った気がした。


「な、なんですか」


俺は寝台から降りようとして、膝から崩れた。


身体に力が入らない。


二年間寝ていたわけではないのだろう。


それでも、俺の足は自分のものじゃないみたいに震えていた。


「客じゃねえな」


ゲラルトが吐き捨てた瞬間、


工房の扉が、内側へ吹き飛んだ。


冷たい夜風と一緒に、血の匂いが流れ込んでくる。


立っていたのは、男たちだった。


三人。


いや、扉の向こうにさらに影がある。


革鎧を着込み、斧や短剣を握っている。顔にも腕にも血がついていた。それが自分のものなのか、他人のものなのか、分からない。


先頭の男が、裂けた口で笑った。


「よう、ゲラルト。ずいぶん立派な工房じゃねえか」


男の左手から、血がぽたぽたと床に落ちる。


赤い滴は、さっき俺が吐いた泥水と混ざって、黒く広がった。


ゲラルトが一歩前へ出る。


アイシャが俺の腕を掴み、奥へ引こうとする。


俺は動けなかった。


心臓がうるさい。


喉が乾く。


怖い。


怖いのに――


頭の奥で、冷たい何かが、ゆっくり目を開けた気がした。


男が剣を振り上げる。


その刃が、炉の火を受けて赤く光る。


俺はようやく悟った。


異世界で最初に待っていたのは、女神の説明でも、夢みたいな冒険でもない。


泥と鉄と血の匂いがする、殺し合いだった。

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