第15話 カピバラ問答
森から戻って、七日が経った。
俺の傷はだいぶよくなって、体力も戻ってきた。
短い距離なら全力で走れるようになった。
炉の横には、ゲラルトが作業中の緋角蜥蜴から取った赤い角が置かれている。熱はもう抜けているはずなのに、近づくと妙に喉が乾いた。
「食え」
ゲラルトが木椀を俺の前に置いた。
麦粥だった。前より少し肉が多い。
「……多くないですか」
「残したらぶん殴る」
なら聞くなよ、と思ったが、口には出さなかった。
アイシャが横から覗き込んで、にやっと笑う。
「師匠、ミナトに甘くなりましたよね」
「うるせえ。こいつが痩せすぎてると、また勝手に倒れて面倒なんだよ」
ゲラルトはそう吐き捨てて、炉の方へ戻っていった。
口は悪い。態度も悪い。
けれど、森に行く前なら俺の椀に肉なんて入っていなかった気がする。
俺は黙って粥を口に運んだ。
工房の隅には、角の生えたカピバラが立っている。
二本足で、棒立ち。
火の粉が飛んでも瞬きもしない。灰が舞っても鼻をひくつかせない。ただ、黒い丸い目でこちらを見ている。
いや、見ているように見えるだけかもしれない。
森で、俺はこいつに何度も助けられた。
罠の線。笛の音。緋角蜥蜴の足の位置。
俺がやったような顔をしているが、実際にはほとんどカピの読みだった。小学生の頃に吹いていたリコーダーの記憶まで引っ張り出された時は、人生に無駄なものはないのかもしれないと少しだけ思った。
使えるものは何でも使えとゲラルトが言っていたが、
今のところ剣も魔法も使えない俺が、この世界で生き残っていくためには、
カピの事をもっと知る必要がある。
出来る事と、特に出来ない事とを。
俺は椀を置いて、カピを見た。
「カピ」
『はい』
「お前は何なんだ」
『番です』
「誰の?」
『本来の守護対象は、あなたではありません』
「でも今は俺を守ってる」
『あなたは宿主です』
短い。
相変わらず、必要なことしか言わない。
俺は息を吐いた。
「じゃあ、どこまで分かる?」
『宿主の感覚内』
「俺が見たもの、聞いたものってことか」
『近いです』
俺は腹の奥に意識を向ける。
そこには、今でも妙な感覚があった。骨でも内臓でもない、青白い芯のようなもの。そこに鉄屑や魔獣の骨の欠片が絡みついていると、透かし石で見せられた。
脳とそれらがアンテナのようになって、エーテルの流れ、というのが見えるらしい。
俺にはそれが、腹の奥を爪で撫でられるような感触として分かる。
多分、カピは同じものを、俺よりずっと細かく読んでいる。
「アイシャ、少し術を見せてもらっていいか」
「え? いいですけど、見るだけですよ。近づかないでくださいね」
アイシャは針で指先を軽く突いた。
血の雫は布に吸わせる。
そのあと、彼女が指先を空中に滑らせると、血ではなく、淡い赤みを帯びた光の筋だけが空間に浮いた。熱いガラスに爪で傷をつけたような、細く頼りない線。
線はすぐに震え、炉の火に吸われるように薄くなる。
腹の奥が、ちり、と鳴った気がした。
「何も言わないのか?カピ」
『危機ではありません』
なるほど。
エーテルの変化があれば全部警告してくれる、というわけではないらしい。
俺が死ぬ時だけ。
あるいは、俺が損なわれる時だけ。
俺はしばらくカピを見ていて、ふと思いついた。
こいつの姿は、俺の視界の中で勝手に動く。
それなら……。
「カピ、確認したいことがある」
俺は立ち上がった。
工房の奥には物置へ続く曲がり角がある。
俺の位置からは、その先が見えない。
俺はカピを指差した。
「そこに立てるか」
カピは、音もなく歩いた。
「アイシャ、悪い。物置の角の向こうで指を何本か立ててくれないか」
「何の実験ですか、それ」
「俺の頭がおかしいかどうかの確認」
「それは今さらでは?」
ひどいことを言いながらも、アイシャは物置の奥へ回った。
「立てましたよ」
俺はカピを見る。
「何本?」
『不明』
俺は首だけ伸ばして角の向こうを覗いた。
アイシャは三本、指を立てていた。
「三本か」
「当たりですか?」
「外れ。何も分からなかった」
「じゃあ何のためにやったんですか」
「がっかりするため」
『この姿は猿の目に重ねて、見せているだけです』
俺は眉をひそめた。
「つまり、俺が見えないものは見えない?」
『見えません』
俺はがっくり肩を落とした。
「なんだよ……角の先が見えるなら、めちゃくちゃ便利だと思ったのに」
逆に視界の一部を奪われているので、邪魔になる事もある。
だから、あまり目立たない位置にいるのか。
アイシャが炉のそばへ戻った時、小さな火種が弾けた。
赤い粒が、彼女の袖に落ちる。
じゅ、と嫌な匂いがした。
「アイシャ!」
俺は近くの濡れ布を掴んで、彼女の袖を叩いた。
「わっ、す、すみません!」
袖の焦げは小さかった。火傷もない。
けれど、俺の背中には冷たい汗が浮いていた。
カピは何も言わなかった。
「……アイシャが危なかったのに何で警告してくれないんだ」
『宿主損傷なし。対象外です』
短い言葉だった。
だからこそ、腹の底に沈んだ。
こいつは俺以外を積極的に守らない。
俺が危険に踏み込めば、その時だけ俺を守る。
つまり、アイシャやゲラルトを守りたければ、俺自身がそこへ行くしかない。
その時初めて、カピは鳴る。
「性格悪いな、お前」
いや、性格が悪いわけじゃないのかもしれない。
カピにデコピンしたくなったが、そもそもすり抜けてしまう。
そういう番なのだ。
「カピ」
『はい』
「死ぬ時は、必ず死相が見えるのか?」
『余力によります』
「余力が無かったら?」
『見えません』
寒気がした。
死相を見る前に、本当に死んでしまうこともある。
笑えない。
運が良ければ問題を少し早く見せられるだけだ。
さらに死を回避する答えは、自分で作るしかない。
ゲラルトが炉の向こうからこちらを見ていた。
「分かったか」
「何がですか」
「その変な獣に頼れば全部どうにかなる、なんてことはねえってことだ」
ゲラルトはそう言って、俺の足元に木剣を転がした。
「食ったら立て。今日から動かす。死ぬほどはやらねえ」
「死ぬほどじゃない、の基準が信用できないんですが」
「俺を信用しろとは言ってねえ。自分の手足を信用できるようにしろ」
言い返せなかった。
木剣を握った。
重い。
木なのに重い。
森で鉄パイプを振り回した時は必死だったから分からなかったが、俺の腕はまだ細く、足腰はふらついている。
ゲラルトが俺の膝を蹴った。
「曲げろ。棒立ちだと押されて終わる」
「はい」
「肩で振るな。肋が開く」
「はい」
「目だけで追うな。足を置け」
「はい」
数回、木剣を構え直しただけで汗が出た。
「顔が暗いぞ、それで絶望するなら、森で死んどけ」
「……ひどいですね」
「生きてるやつにしか言わねえよ」
ゲラルトは俺を見ないまま、火掻き棒の柄に革紐を巻き始めていた。
「火掻き棒の道は整えておいたぞ、また笛吹いて俺を吹っ飛ばしたきゃ使え」
何度も窮地を救ってくれた鉄パイプさんの復活に胸が熱くなる。
「ありがとうございます!そして本当にすいませんでした!」
「冗談だ、半分な。使えるもんは使え」
アイシャが小さく笑った。
「師匠、心配なんですよ」
「黙って薬草でも刻んでろ」
俺は少しだけ笑ってしまった。
その夜、工房の扉が叩かれた。
遅い時間だった。
ゲラルトが大剣に手を伸ばす。
アイシャが灯りを絞る。
俺も火掻き棒を握った。
扉の向こうから聞こえたのは、ロガの自警団長オルンの声だった。
「俺だ。開けろ、ゲラルト」
「夜中に来るな。ろくな話じゃねえだろ」
「ろくでもねえから来た」
扉を開けると、オルンは雨に濡れた外套を着て立っていた。
顔が硬い。
「北の街道で馬車が襲われた。王都筋の上等な馬車だ。旗は裂かれていて、紋章は分からん。護衛も何人かやられてる」
「野盗か」
「野盗にしては装備が良すぎたそうだ。術師もいたらしい」
ゲラルトの目が細くなった。
「村に入ったのか」
「まだだ。だが、森沿いに逃げたそうだ。」
炉の熱が落ちた工房で、雨の匂いだけが濃くなった。
カピが、俺の視界の端でわずかに首を動かした。
『遠方、大きな流れ。宿主危機の可能性、低』
俺は奥歯を噛んだ。
俺はまだ危なくない。
ゲラルトが面倒くさそうに舌打ちする。
「……厄介事の臭いがするな」
俺は火掻き棒を握り直した。
革紐を巻かれた柄は、前より少しだけ手に馴染んだ。




