第13話 無駄じゃなかったリコーダー
森を出るまでは、誰もまともに喋らなかった。
血の匂いに別の魔獣が寄る。
ゲラルトがそう言ったからだ。
俺は鉄パイプを杖にして、何度も足をもつれさせながら歩いた。
肩が痛い。
沼から這い出る時に怪我したのか脇腹に血が滲んでいる。傷が熱い。
肺の奥が痛む。
それでも、歩いた。
ゲラルトは緋角蜥蜴の角を布で包んで担ぎ、アイシャは周囲を警戒しながら俺の横を歩いている。
カピは少し前を、二本足でてくてく歩いていた。
腹立つくらい平然としている。
開けた森を抜け、荒野の岩陰まで戻ったところで、ようやくゲラルトが足を止めた。
「ここで少し休む」
その一言で、俺はその場に崩れ落ちた。
座った、というより落ちた。
「うぐ……」
「傷を見ます」
アイシャがすぐに膝をつく。
「脇腹、浅いです。でも泥が入ってます。洗います」
「やさしくお願いします」
「無理ですよ」
「ですよね」
水をかけられた瞬間、変な声が出た。
ゲラルトは少し離れた岩に腰を下ろし、左腕の傷を布で縛っていた。
血は出ているが、本人の表情は変わらない。
本当にかすり傷らしい。
いや、あの人の基準でかすり傷なだけかもしれない。
「で」
ゲラルトが低く言った。
「説明しろ」
「何をですか」
「全部だ」
「ざっくりしてる」
ゲラルトの目が鋭くなる。
「お前、あの罠場で何を見て、何を使った。あと俺まで罠で吹っ飛ばしかけた理由もな」
「かけたっていうか……」
「実際、少し飛んだ」
「すみません」
思ったより怒っていた。
いや、怒るよな。
俺のせいで爆発に巻き込まれたようなものだ。
アイシャも頬を膨らませている。
「そもそも、なんで沼に入ったんですか」
「え」
「普通に回り込めばよかったじゃないですか。」
「いや、沼なら隠れられるかと……」
「隠れてませんでした。すぐ見つかってましたし」
「はい」
「また泥でも食べに行ったかと思いましたよ」
「はい……」
何も言い返せない。
あの時は必死だった。
でも冷静に考えると、沼に突っ込む判断はかなり悪かった気がする。
『不合理な経路選択でした』
カピが短く言った。
「お前も今それ言う?」
「またカピさんですか?」
アイシャが聞く。
「うん。不合理だったって」
「カピさんの方が分かってます」
「だいぶ傷つく」
ゲラルトが指を鳴らした。
「脱線するな。笛だ。あれは何だ」
俺はさっき拾った白い骨の笛を取り出した。
獅子の模様が刻まれている。
他にも、魚のような模様、羊のような模様の笛が、赤竜の牙の死体の近くに転がっていた。
全部持ってくる余裕はなかったが、この一本だけは俺の手元に残っている。
「俺は正直、ほとんど分かってません」
「だろうな」
「でも、カピが分かったらしいです」
俺はカピの方を見る。
カピはいつも通り、二本足で棒立ちしていた。
「カピ。説明できるか」
少し沈黙。
それから、頭の内側に声が落ちてくる。
『説明は可能。ただし猿向けに粗くします』
「最初から煽るな」
『音、形、罠の淡い道筋を照合しました』
「もっと粗くなくていい」
『要求が面倒です』
「いいから続けろ」
俺はカピの言葉を、ゲラルトたちに伝える形で説明した。
「まず、最初に野盗が二回、笛を吹いたじゃないですか」
「ああ」
「一回目は、蜥蜴の足元に白い棘が出た。二回目は、蜥蜴の頭の近くに棘が出た。カピはその時の笛と、どの場所の罠が動いたかを覚えたらしいです」
ゲラルトが眉をひそめる。
「二回でか」
「はい。あと、他の笛の形も見てたみたいです」
ゲラルトの顔が少し変わった。
怒りより、興味が勝ち始めている顔だ。
「罠の場所はなんでわかったんだ?」
「罠側にも模様があったらしいです。笛と同じ獣の模様が、地面の鉄皿や木の幹に刻まれていた」
アイシャが目を丸くする。
「そんなの見えました?」
「俺には全然」
正直、俺には淡い線が気持ち悪い、くらいにしか分からない。
胸に響く圧迫感。
熱い、濁ってる、詰まってる。
その程度だ。
でもカピは、同じ俺の腹の感覚を使って、もっと細かく見ていた。
「俺の腹が拾ってるものを、カピは俺よりずっと細かく読めるみたいです。俺には、なんか気持ち悪い、とか、腹が熱い、くらいなんですけど」
ゲラルトは腕を組んだ。
「つまり、笛の模様と罠の模様。それをまとめて、どの笛がどこの罠を起こすか読んだわけか」
「そうです」
「二回鳴らされた後なら、だいたい分かったと」
「たぶん」
「たぶんで俺を爆風に巻き込むな」
「すみません」
本当に申し訳ない。
ゲラルトはため息をついた。
「だが、理屈は通る」
「通るんですか」
「罠師が自分で分からなくならねえように、笛と罠に同じ印を刻むのは自然だ。音を鍵にする罠なら、音色ごとに分ける。あいつらにしちゃ、よく出来た道具だ。奪ったんだろうがな。」
「じゃあ、沼で鉄パイプを吹いたのは?」
アイシャが聞いた。
「あれもカピが?」
「はい」
俺は火掻き棒――鉄パイプを持ち上げる。
「これ、筒なので。泥に突っ込んで長さを変えると、音が変わるって」
「え、そんなことで罠が動くんですか?」
「五分五分だったらしいです」
『正確には四十七から五十三の間です』
「ほぼ五分五分だろ」
『雑です』
「うるさい」
俺は説明を続ける。
「俺、リコーダーっていう笛を吹いたことがあって」
「りこーだー?」
アイシャが首を傾げる。
「俺のいたところの、子供が習う笛です。穴を押さえる場所や、筒の長さで音が変わるんですけど」
「それが何の役に立つ」
「俺も今まで役に立ったと思ったことなかったです」
小学校の音楽室。
プラスチックのリコーダー。
指がうまく動かなくて、先生に怒られた記憶。
音が裏返って、友達に笑われた記憶。
正直、人生で二度と使わないと思っていた。
でも、カピは俺の記憶の中から、それを引っ張り出したらしい。
「筒の長さ、穴の位置、息の当て方。俺の記憶にある笛の感覚と、あの骨笛の形を合わせて、どんな音が出るか近いところを読んだ、らしいです」
『完全ではありません、全て猿の未熟な感覚フィルターと記憶の離脱が入っていました。ですが二回で形状と音の式を補正しました』
カピが言う。
俺はそのまま伝える。
「完全ではないそうです。でも実際に二回音を聞いたから、笛の形状から音がかなり絞れた」
「カピは、鉄パイプの長さと、泥に刺した深さで、あの骨笛に近い音が出せるか計算したみたいです。ただ、この鉄パイプは失敗作だけど、魔獣の骨を練った芯材だから、罠の淡い道に引っかかるかもしれない。普通の筒なら無理だったって」
ゲラルトは鉄パイプをじっと見た。
「失敗作がまた役に立ったか」
「何度も命を救われてます」
「調子に乗るなよ、火掻き棒」
ゲラルトが鉄パイプに向かって言った。
「道具に嫉妬してません?」
「してねえ」
たぶん少ししている。
アイシャは真剣な顔で俺の手元の骨笛を見ていた。
「じゃあ、最後にミナトさんが吹いた獅子の笛は、死の予測で見えたから?」
「はい」
死の予測。
あの炎の中、俺は焼け死んだ。
その時、倒れた男の腕のそばに、白い骨の筒が見えた。
模様までは、その時は意識していなかった。
けれど戻った瞬間、カピが「獅子の模様」と言った。
俺はその言葉を頼りに、死体のそばを探した。
そして見つけた。
「死ぬ未来で、使えるものが見えることもあるんですね」
アイシャがぽつりと言った。
俺は骨笛を見下ろす。
もしあの死相で炎しか見ていなかったら、俺たちは焼けていたかもしれない。
もし小学校でリコーダーを吹いた記憶がなければ、
カピは音を読む手がかりを持たなかったかもしれない。
あの退屈で、下手くそで、何の役にも立たないと思っていた授業が。
この異世界の森で、罠を起こす鍵になった。
「……無駄じゃなかったんだな」
俺は小さく呟いた。
アイシャが首を傾げる。
「何がですか?」
「昔の、どうでもいい記憶だよ」
「どうでもよくなかったんですね」
「みたいだね」
少しだけ、胸が温かくなった。
日本の記憶は、今の俺を苦しめる。
母さんのこと。
父さんのこと。
帰れないかもしれない不安。
でも、それだけじゃない。
俺を助けるものにもなる。
俺の中に残っているものは、全部、まだ使えるかもしれない。
ゲラルトが立ち上がった。
「説明は分かった」
「納得しました?」
「半分な」
「半分」
「もう半分は、俺まで罠で吹っ飛ばしやがった件だ」
「すみません」
「次やる時は、先に言え」
「次がある前提なんですか」
「お前はまたやる」
ゲラルトは鼻で笑い、緋角蜥蜴の角を担ぎ直した。
「ただし、悪くはなかった。お前は自分の血で術を起こせねえ。
だが、罠でも敵の道具でも、失敗作でも、使えるなら使え。それが生き残るってことだ」
「はい」
「あと、沼に入るな」
アイシャが即座に頷く。
「本当にそれです」
「はい……」
「見つかってましたからね」
「もう勘弁してください」
アイシャはまだ少し怒っていた。
でも、その目には安堵もあった。
俺が生きていることへの、たぶん。
カピは少し離れたところで、静かに立っている。
「カピ」
『何ですか』
「すごいな、お前」
『当然です』
「便利だな」
『当然です』
「そこで少し照れたりしない?」
『不要です』
やっぱり腹は立つ。
でも、今日も命を救ってもらった。
「助かった。ありがとう」
少しの沈黙。
カピは丸い目で俺を見た。
『警護の範囲内です』
「はいはい」
それだけ言うと、カピはまた黙った。
ゲラルトが歩き出す。
「帰るぞ。角は取れた。野盗どもの道具も、持てるだけ持った。売れるし、調べる価値もある」
「また部屋が雑然としますね」
「素材は重いほど価値がある」
「その格言、嫌いです」
俺は鉄パイプを杖にして立ち上がった。
足は震える。
肩は痛い。
脇腹も痛い。
でも、胸の奥は少しだけ軽かった。
俺の中にある日本の記憶。
父さんのクジラ。
小学校のリコーダー。
無駄だと思っていたものが、この世界で命を繋いだ。
なら、まだ他にもあるかもしれない。
俺がここで生きるための、細い道が。
俺は骨笛を布に包み、荷袋へ入れた。
そして、ゲラルトとアイシャの後を追って、ロガへの帰り道を歩き出した。




