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第1章 孤独な再出発

【夜逃げの果て、岡崎の泥濘でいねい


1960年代後半。諏訪湖の静かな湖畔で育まれた二人の情愛は、穏やかな結末を許されなかった。

俊郎としろうの家庭という壁を壊すために選んだ手段は、あまりにも拙速で、破壊的な「駆け落ち」という名の夜逃げだった。


信州の冷涼な空気の中に、千夜子が築き上げたオルゴール工場の平穏も、俊郎が辛うじて維持していた大手企業の肩書きも、すべてを置き去りにして二人は夜汽車に飛び乗った。


【絶縁の代償】


東京・代々木の邸宅を守る俊郎の父・利蔵としぞうにとって、息子の不始末は一族の泥を塗る行為に他ならなかった。

利蔵は、重役としての立場と財力を行使し、俊郎の元妻に対して当時としては破格の、気が遠くなるような額の慰謝料を支払った。

それは孫たちの養育費であると同時に、息子が犯した「罪」を金で封じ込めるための処置でもあった。


「……金は払った。だが俊郎、今日限りでもうお前を息子とは思わん。二度と荒川の敷居を跨ぐな」


利蔵から突きつけられたのは、あまりに冷酷な絶縁状だった。

代々木の邸宅、約束された遺産、そして父の庇護。

俊郎は、千夜子という一人の女を手に入れるために、自らを形成していた「エリート」としての全財産を失ったのである。


【岡崎の孤独な出発】


二人が辿り着いたのは、愛知県岡崎市。

八丁味噌の香りが漂い、矢作川が流れるその街は、かつての諏訪湖の静寂とは異なる、蒸し暑く、見知らぬ人々の喧騒に満ちていた。


「夜逃げ」同然で始まった生活は、ロマンチックな逃避行などではなかった。

手元にはわずかな荷物と、利蔵からの絶縁によって空っぽになった俊郎のプライドだけが残されていた。

俊郎は、かつての大手企業での輝きを失い、岡崎の地で慣れない肉体労働や低賃金の仕事を探し歩くことになる。


千夜子は、慣れ親しんだ信州の山々を思い出し、胸を締め付けられる夜もあった。

しかし、彼女が選んだのは、父・治郎蔵に反旗を翻し、母・智代の宗教からも逃れ、自らの意志で「愛」という名の不条理に身を投じる道だった。


「ここで、やり直しましょう」


狭く湿ったアパートの一室で、千夜子は俊郎にそう微笑みかけた。

だが、俊郎の瞳に宿る「ノイローゼ」の影は、環境を変えても消え去ってはくれなかった。

都会の冗談を言っていた彼の余裕は、日々の生活の困窮とともに、少しずつ、しかし確実に削り取られていく。


岡崎の泥濘のような日々。

そこが、後に生まれる「進」が最初に吸い込む空気になることを、今の千夜子はまだ知る由もなかった。


【新聞の余白と、消えない足跡】


千夜子が俊郎とともに夜逃げを決行した後、信州の実家には、針の落ちる音さえ響くような奇妙な静寂が降り積もっていた。


居間では、母・智代が老眼鏡を鼻先に引っかけ、一字一句をなぞるようにして新聞を広げていた。

かつてインテリとの交流に耽り、難解な経典を諳んじたその瞳は、今や社会面の隅にある小さな記事――「身元不明の遺体発見」という数行の活字に釘付けになっていた。


「……これ、千夜子じゃないだろうか。どこか遠いところで、行き倒れているんじゃないだろうか」


智代の声には、かつての高慢さは欠片もなく、ただ愛娘を失った母親の、弱々しい震えだけが混じっていた。


【智代の「親心」】


治郎蔵が亡くなった後、智代にとって千夜子は、家事や世話を頼るだけの存在ではなく、この家で一番「言葉が通じる相手」でもあった。

治郎蔵とは生涯、魂の触れ合うような会話など持てなかった智代にとって、娘の失踪は、自らの知性を繋ぎ止めていた最後の糸が切れたことを意味していた。


智代は、千夜子の駆け落ちを激しく非難することはなかった。

もともと世俗の道徳よりも自らの感情と「文字の世界」を優先してきた彼女だ。

千夜子が不倫の末に夜逃げをしたという不名誉よりも、ただ「娘がいなくなった」という単純で巨大な欠落に、子供のようにオロオロと戸惑うばかりだった。


「お母さん、またそんな記事見て。お姉ちゃんは、絶対にどこかで生きてるよ」


そこへ、末娘の千冬がやってきて、智代の肩を優しく抱いた。

千冬は、自分とは似ても似つかないほど美しく、そして自分を心から可愛がってくれた姉の生命力を誰よりも信じていた。


「お姉ちゃんは強いもん。あんなに父さんの世話をして、家を守ってきたんだよ。どこにいたって、死ぬような人じゃない」


「……そうだろうか。でも、便り一つないんだよ」


智代は力なく新聞を畳んだ。

彼女の親心は、実利的な心配というよりは、宛先のない手紙を書き続けるような、頼りない空想の中に漂っていた。


【孤立する母娘】


家の中には、かつて治郎蔵が放っていた、あの「泥臭い生命力」の残香はもうなかった。

宗教に逃げ、新聞の端に娘の影を追い求める智代。

そして、姉への憧憬を胸に、母を支え続ける千冬。


「きっと、幸せになってるよ。そうでなきゃ、あんなことしない」


千冬の言葉に、智代はぼんやりと窓の外の山々を見つめた。

娘がかつて、プールのベンチで光の粒子を見つめていたことも、父の寝息を枕辺で聞いたことも、智代は知らない。

ただ、自分がかつて「なかくら」の家を離れ、治郎蔵のもとへやってきた時の、あの「もうここには居られない」という激しい焦燥だけは、娘と共有しているような気がしていた。


愛知県岡崎市の湿った空気の中で、千夜子が新しい命――「進」を宿そうとしていることなど、信州の二人はまだ夢にも思わなかったのである。

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