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第3章 露と消えた約束

【降り積もる闇】


夕暮れの居間には、低く、澱んだ智代ともよの読経が響き渡っていた。


懺悔さんげせんとほっせば、端座たんざして実相じっそうおもえ。衆罪しゅざい霜露そうろごとし、慧日えにちよく消除しょうじょすと」


姿勢を正し、真理を思えば、罪は太陽に照らされた霜や露のように消えていく――。

その声を聞きながら、傍らで夕餉の支度をする千夜子は、冷めた眼差しを母の背中に向けていた。


(母さんの罪は、働かないことと、金遣いが荒いこと。それを悔い改めればいいだけじゃないか)


経典を捲る暇があるなら、くわを握り、家計を直視すればいい。

母が背負っている「衆罪」は、神仏に祈る前に、自らの行動を変えることでしか消えはしない。

千夜子の心の中には、宗教という名の逃避に対する、静かで、しかし峻烈な拒絶が芽生えていた。


「宗教なんて信じるものか。宗教が私たちを不幸にしたんだ」

千夜子は、母の信仰を憎んだ。

そんな千夜子を横目で見ながら、母・智代は今日も読経を続けるのだった。


【灯火の予感】


そんな中で千夜子は中学二年生になった。

周囲の同級生たちが進路を語り始める中、千夜子の心には「高校進学」という、この家では禁忌に近い願いが膨らんでいた。


意外にも、その背中を押したのは父・治郎蔵じろうぞうだった。

「千夜子、お前は高校へ行け。……俺はこんな身体だ。全日制は無理だが、働きながら学べる定時制なら、道は開ける」


半身に麻痺を抱え、思うように動かなくなった父の言葉には、無学ゆえに苦労した自分への落胆と、聡明な娘への最後にして最大の期待が込められていた。

ただ、定時制高校の帰りは夜道になる。

街灯もまばらな信州の山道は真っ暗で、当時は不審者の噂も絶えなかった。


「心配するな。農作業が終わったら、俺が必ず自転車で迎えに行ってやる」


治郎蔵は、動く方の手で千夜子の肩を叩き、優しく笑った。

この家族の中で、誰も成し得なかった「高校進学」。

その約束は、千夜子にとって暗闇を照らす唯一の灯火ともしびであった。


【断ち切られた調べ】


しかし、運命は非情だった。 計画が具体性を帯び始めた矢先、治郎蔵を二度目の災厄が襲った。

再びの脳出血。

かつてあれほど強靭だった成り上がりの地主は、抵抗するすべも持たず、あまりにあっけなくこの世を去った。


享年五十三。

あまりに早い、そして残酷な幕引きだった。


亡骸なきがらとなった父の傍らで、智代はまた同じ経を唱え始めた。

罪が消える、露のように消える、と。

だが、本当に消えてしまったのは、母の罪ではなく、父が千夜子に差し出した「未来」という名の約束だった。


夜道の迎えは、もう来ない。

冷たくなった父の手を握りながら、千夜子は自分の足元から、さらさらと音が立てて崩れていく「自由」の感触を聞いていた。


【泥の中の浄土】


治郎蔵じろうぞうの葬儀には、驚くほど多くの参列者が詰めかけた。

その顔ぶれは、かつての閉鎖的な村の常識を覆すものだった。

治郎蔵が生前、対等に接し、仕事を任せてきた被差別部落の人々や韓国・朝鮮系の人々。

彼らは棺の中の治郎蔵にすがり、野太い声をあげて泣いた。

泥にまみれた成り上がりの地主が、実はどれほど多くの孤独な魂を救い、誇りを与えてきたか。

その涙が、何よりも雄弁に物語っていた。


しかし、焼香の列の隅で、千夜子の耳に薄汚い言葉が飛び込んできた。

「……ふん、所詮は欲深い成り上がりよ。死んでせいせいした」

村の男が吐き捨てたその言葉に、千夜子の心に宿っていた悲しみは、一瞬にして黒い殺意へと塗り替えられた。


(許さない。あいつだけは、絶対に許さない)


葬儀が終わった後も、千夜子の頭の中は、その男への復讐の計画だけで埋め尽くされていた。


【復讐という名の鎖】


中学校を卒業した千夜子は、夢見ていた高校進学の代わりに、愛知県の蒲郡がまごおりへと向かった。

姉の八千代やちよが紹介してくれた紡績工場で働くためである。

八千代は、生前治郎蔵から冷遇されていた身でありながら、不思議と父を恨む様子はなく、妹の千夜子を優しく迎え入れた。


寮の狭い部屋で、八千代は千夜子の曇った表情を見て静かに尋ねた。

「千夜子、まだお父さんのことで、辛いの?」

千夜子は、震える声で胸の内をぶちまけた。

「それもある。でも……葬式で父さんの悪口を言った奴がいたの。私、どうしても許せない。あいつを殺して、自分も死んでやりたい」


激しい憎悪に身を焦がす妹を見つめ、八千代は穏やかに、しかし芯のある声で言った。

「分かるよ。千夜子はお父さんが大好きだったもんね。でもね、千夜子がそんなことしたら……お父さん、悲しむよ。千夜子のことが一番自慢だったんだから」


その瞬間、千夜子の心に氷解のような衝撃が走った。

父は、自分のために不審者の出る夜道を迎えに来ると言ってくれた。

その愛を「人殺し」という汚れた手で汚すこと。

それが父への最大の不孝であると、千夜子ははっと悟ったのだ。


【境界を越える寝息】


その日の深夜。

八千代と並んで寝ていた千夜子は、ふと、不思議な音に意識を浮上させた。


「……スゥ、スゥ……」


それは、重く、どこか規則的な男の寝息だった。

かつて治郎蔵が、重い農作業を終えて疲れ果て、居間で眠っていたあの頃の音だ。

千夜子は直感した。

(お父さんだ。お父さんが来ている!)

千夜子は飛び起き、暗闇の中で「お父さん!」と叫びながら部屋中を這うように探し回った。

押入れを開け、窓を叩く。

しかし、そこには冷たい空気があるだけで、父の姿はない。


八千代が驚いて起き出し、千夜子をなだめた。

「千夜子、どうしたの。疲れているんだよ、早く寝なさい」

「でも、お父さんの寝息が聞こえたの! 八千代姉ちゃんも聞こえたでしょ?」


八千代はその問いに答えず、ただ妹の肩を抱き寄せた。

だが、その刹那。

八千代の耳にも、確かに聞こえたのだ。

「スゥ……スゥ……」という、懐かしくも力強い寝息の残響が。

八千代は一瞬「あっ」と息を呑んだが、すぐにそれを意識の奥へと押し込み、聞かなかったことにして目を閉じた。

それは、死者からの最後の挨拶であり、娘たちを「もう大丈夫だ」と解放するための儀式のように思えた。

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