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第2章 文字の逃避行と、掌(てのひら)の上の逆転

【「隆夫」という生き方】

政夫が家を飛び出した後、次男の隆夫にも同じ運命が待ち構えていた。

母・智代の手によって、彼は地元の大工のもとへ半ば強制的に送り込まれた。


しかし、隆夫は政夫とは全く異なる魂の持ち主だった。

彼は何よりも「言葉」を愛した。

懐にこっそりと忍ばせた友人からの借り本は、彼にとって荒れ果てた現実から逃げ出すための唯一の片道切符だった。

智代はその事実に気付いていたが、自分と同じ「活字の血」を引く息子への密かな共感からか、あるいは単なる無関心からか、それを咎めることはなかった。


【鉄拳と隠れ家】


当然ながら、隆夫にとって大工の現場は苦行以外の何物でもなかった。

のみを振るうべき手は、いつの間にか古びた新聞や小説のページを捲っている。

現場の資材置き場や床下。死角を見つけては文字の世界に没頭する隆夫の姿に、激昂した親方の拳が何度も飛んだ。


「この役立たずが! またサボってやがるのか!」


鈍い衝撃が頬を打っても、隆夫の心はどこか冷めていた。

彼は反省する代わりに、どうすれば親方の目を盗んで一分でも長く本を読めるかという「逃避の技術」を磨き上げていった。

サボり方は日に日に巧妙になり、もはや彼にとって現場は「読書のための隠れ家」と化していた。

それでも、人手不足の時代。

いないよりはマシだという消極的な理由で、隆夫は辛うじて職を繋ぎ止めていた。


塩尻で工場を営む政夫は、そんな弟を「寄生虫」を見るような蔑みの目で見ていた。

「泥にまみれて金を稼ぐ覚悟もない男が、紙の上の空想に耽って何になる」

実利を尊ぶ兄と、空想に遊ぶ弟。

二人の間の溝は、もはや埋めようのない深さに達していた。


【華麗なる脱出】

ある日、隆夫が静かに口を開いた。

「付き合っている人がいるんだ」


驚いたことに、その相手は建設現場に時折顔を出していた、誰もが知る大会社の社長令嬢だった。

周囲は「身分が違いすぎる」「政略結婚の道具にされるだけだ」と冷笑し、猛反対した。

しかし、本の世界で数々の英雄譚や悲恋を読み込んできた隆夫にとって、現実の壁など紙の上の障害に過ぎなかった。


彼は、周囲の雑音を柳に風と受け流し、軽やかにその家へと入婿いりむこした。

昨日まで現場で泥にまみれ、親方の拳に怯えていた青年は、一夜にして、誰もが跪くような富と地位を手に入れたのである。


智代の目は、即座に欲望に染まった。

「隆夫、あんた。あんな大きな家に行ったのなら、少しはこっちにも……」

智代は、東京の娘たちにしたように、隆夫からも金を吸い上げようと画策した。

しかし、その目論見は見事に打ち砕かれる。


隆夫が入った先は、一分の隙もない名家だった。

全ての財産は家全体の厳格な管理下に置かれ、一介の養子である隆夫が自由に動かせる金など一銭もなかった。

隆夫は、母の要求を「家の決まりですから」という魔法の言葉で、かつてのサボりのように優雅に、そして徹底的にかわし続けた。


【孤立する千夜子】

千夜子は、急に遠い世界の住人になった次兄の不在を見つめていた。

実力で身を立て、憎しみを糧に生きる政夫。

運と知恵で環境を塗り替え、平然と家族を切り捨てた隆夫。


家の中には、智代の苛立ちと、それに応えない息子たちの冷ややかな沈黙だけが残されていた。

千夜子は、兄たちがそれぞれの方法で手に入れた「自由」の代償が、残された家族のさらなる困窮と断絶であることを、痛いほど感じ取っていた。


【神の声と、止まった時計】


昭和三十年代。家を出た兄たちの不在を埋めるように、伊崎家の玄関には奇妙な訪問者たちが頻繁に姿を現すようになった。


新興宗教の勧誘員たちである。

最初は門前払いを食らわせていた智代ともよだったが、ある時から彼女は彼らを室内に招き入れ、熱心に耳を傾けるようになった。


没落した名家の矜持、生活能力を欠いたことによる家庭内の不和、そして思うように金を送ってこない息子たち。

智代の心に空いた底なしの穴を埋めたのは、治郎蔵じろうぞうが説く「労働の正義」でも、彼女が愛した「文学」でもなく、異世界の救済を説く甘い神の言葉だった。


家の中には、それまで聞いたこともないような呪文のような詠唱や、胡散臭い教えを説く他人の声が響き渡るようになった。


【爆発する静寂】

「いい加減にしろ! どこの馬の骨とも分からん奴を家に入れるな!」


治郎蔵の怒号は、連日、信州の山あいの家に木霊した。

無学ゆえに自らの腕一本と論理的な思考だけで財を成した治郎蔵にとって、目に見えぬ力に縋る智代の姿は、最も軽蔑すべき「無知」の象徴だった。

彼は、居座る勧誘員を力ずくで追い出し、智代が大切に隠していた教典を庭で焼き捨てた。


ある日の午後。かつてない激しい口論が繰り広げられていた最中だった。

「お前という女は……!」

言いかけた治郎蔵の言葉が、不自然に途切れた。


真っ赤に充血した顔、見開かれた瞳。治郎蔵は、自らの意思に反して歪んでいく口元を押さえようとして、そのまま畳に崩れ落ちた。軽い脳溢血だった。


【失われた「怒り」】

幸いにも発見が早く、医師の処置によって一命を取り留めた。

しかし、退院して自宅に戻ってきた治郎蔵は、以前の彼とは別人のようになっていた。


身体の半分には、重い鎖を引きずるような軽い麻痺が残った。

だが、それ以上に家族を震撼させたのは、彼の内面から「怒り」という感情が綺麗さっぱり消え失せていたことだ。


かつてあれほどまでに激しく智代を罵倒し、不条理に抗い、泥の中から田畑を掴み取ってきたあの激情の塊は、どこへ行ったのか。

治郎蔵は、勧誘員が再び居間に座り込んでいても、智代が家事を放棄して祈りを捧げていても、ただ仏像のような穏やかな微笑を浮かべて、窓の外の山々を眺めるだけの人になってしまった。


「……お父さん?」

千夜子が恐る恐る声をかけても、治郎蔵はただ「ああ、千夜子か」と優しく答えるだけだった。

そこには、彼女を寵愛していた熱烈な眼差しも、息子たちを突き放していた冷徹な光もなかった。


【停滞する家】


智代は、夫が大人しくなったことを「信心の功徳」だと吹聴し、さらに深く宗教へと傾倒していった。

一方、千夜子にとって、父の「沈黙」は死よりも辛い光景だった。

感情を失った父と、現世を捨てた母。

そして、その異様な静寂の中で、千夜子は悟ってしまった。

この家において、まともな「対話」が成立する時代は、永遠に終わってしまったのだと。


兄たちが奪い合うようにして逃げていった「自由」の果てに、千夜子が手にしたのは、障害を負った父の世話と、宗教に狂う母という、逃げ場のない現実だった。

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