第1章 暗雲の家庭
【引き裂かれる姉たちと、静寂の帰宅】
昭和30年代が近づくにつれ、治郎蔵の家からは、年長の娘たちが一人、また一人と去っていった。
腹違いの姉・かをりは、中学を卒業すると同時に東京へと送り出された。
智代の連れ子であった八千代も、愛知県の蒲郡にある紡績工場へと働きに出た。
「できるだけ街の中心で、近くに寮がある職場にしなさい」
智代が2人にそう勧めたのは、娘たちの将来を案じてのことではなかった。
給料日当日、彼女たちの職場へ自ら足を運び、娘たちが汗水垂らして稼いだ封筒を、その手で直接受け取るためであった。
もちろん、そこまでの交通費も、娘達の給料から出してもらうつもりだ。
没落した実家の矜持を捨てきれぬまま、生活能力を欠いた智代にとって、娘たちはもはや家計を繋ぎ止めるための「集金先」に過ぎなかったのである。
【隠された弁当、暴かれた現実】
そんな歪な家計のしわ寄せは、小学生の千夜子にも及んでいた。
待望の遠足の日。色とりどりの風呂敷が広がる中で、千夜子は独り、大きな岩の陰に隠れるようにして座った。
差し出された弁当箱の中身は、あまりにみすぼらしかった。嵩増しされた冷たい芋と、わずかな漬物。
彩りなど望むべくもない。
同級生たちの華やかな卵焼きやウインナー、煮物の匂いから逃げるように、千夜子は急いで口に詰め込み、誰にも中身を見られることなく「無事」に遠足を終えた。
「ただいま」
三キロの道のりを歩き、ようやく辿り着いた我が家。
しかし、迎えたのは安らぎではなく、鼓膜を劈くような怒号だった。
「なんで家事をやらんのだ! 掃き掃除一つ満足にできんのか!」
「……私なりにやっています。これでも精一杯なんです」
「嘘をつけ! なんでこんなに金がないんだ。娘たちの給料はどこへ消えた!」
「いろいろいるのよ。子供が多いんですから、当たり前でしょう」
治郎蔵の我慢が限界を超え、その大きな掌が空を切り、智代を打ち据えた。
智代はその場にうずくまり、乱れた髪の間から夫を凝視した。
「……あなたは最低です。私のことなんか、何一つ分かっていない」
絞り出すような智代の言葉は、治郎蔵への拒絶であると同時に、己の「高貴な魂」を理解せぬ俗世への呪詛のようにも聞こえた。
【忘れ去られた帰還】
居間の隅では、兄の政夫と隆夫が石のように動かず、ただ下を向いて嵐が過ぎ去るのを待っていた。
幼い妹の千冬は、その凄惨な光景から心を切り離すように、畳の上を這う小さな虫と無邪気に戯れている。
千夜子は、背負い袋を肩にかけたまま、薄暗い玄関先に立ち尽くしていた。
遠足の楽しかった出来事、あるいは弁当を隠して食べた寂しさ。
それを聞いてくれる者は、この家には誰もいなかった。
両親は互いを憎むことに、兄妹は耐えることに、千冬は逃避することに、それぞれが必死だった。
家族の誰一人として、千夜子の帰宅に気付かない。
千夜子は、手にした空の弁当箱をそっと握りしめた。
外で見せる美しく聡明な少女の仮面の下で、彼女の心には、冬の信州の夜のような、深く冷たい静寂が降り積もっていった。
【キャンバスの夢と、鉄の復讐】
学校での千夜子は、家での静かな影のような姿とは対照的に、隠れた「天才」として知られていた。
彼女が画用紙に筆を走らせると、信州の山々は呼吸を始め、級友の顔は魂を宿した。
いつしか彼女は、千夜子とピカソを掛け合わせた「チヤソ」というあだ名で呼ばれるようになる。
作文を書けば、その情景描写の美しさに教室中が静まり返った。
(いつか、美術の先生になりたい)
色鮮やかな絵の具に囲まれ、子供たちに美しさを教える自分。
そんな夢が、千夜子の心の中に小さな灯を点していた。
しかし、その灯を吹き消すのは、常に最も身近な存在であった。
【政夫の叛逆】
兄・政夫の進路は、母・智代の手によって、本人の意志を無視して決定された。
「これからは手に職をつけるのが一番よ」
そう言い放った智代は、勝手に政夫を地元の棟梁のもとへ弟子入りさせた。
嫌がる政夫を無理やり現場へ送り出し、その給料を家計の足しにする算段だった。
当時の大工修行は3年。
それを耐え抜けば、一人前の雇われ大工として食い扶持が得られる。
しかし、修行明けを目前に控えた2年と11ヶ月目、政夫は突如として鑿を置いた。
「なんてもったいないことを! あと1ヶ月で修業が明けるのよ!」
激昂する智代に対し、政夫は冷え切った眼差しで言い放った。
「……あと1ヶ月働いたら、俺はこの業界から抜け出せなくなる。だから、その前に辞めてやった。あんたの思い通りにはさせない」
政夫はそのまま着の身着のままで東京へ飛び出した。
「これからは自動車の時代だ」
その直感を信じ、東京の自動車部品工場で死に物狂いで働き、技術を盗んだ。
智代に給料をむしり取られることのない場所で、彼は飢えた獣のように金を貯めた。
【鉄の掟】
わずか三年後。政夫は貯めた資金を手に信州へ戻り、塩尻市に小さな自動車整備工場を建てた。
自らが主となる自営業。
それは、母の支配から完全に脱却するための、彼なりの聖域だった。
「自営業なら、誰にも給料をむしり取られない。……俺は絶対に、あの人を許さない」
工場の油の匂いの中で、政夫は千夜子に向かって呟いた。
その背中は、かつて母に無理やり現場へ行かされていた少年のそれではなく、冷徹な経営者のものだった。
「本ばかり読んで、インテリと交流して……それでこの家はどうなった。学問なんて要らない。そんなものは、人を不幸にするだけだ」
政夫の言葉は、智代への復讐そのものだった。
彼女が大切にしていた「知性」や「教養」を、彼は汚れた作業着で全否定してみせたのだ。
「チヤソ」と呼ばれ、美術の先生を夢見ていた千夜子は、兄の鬼気迫る姿を前に、ただ黙って聞き入るしかなかった。
「俺はここで成功して、あの人に見せつけてやるんだ。本なんか呑気に読みやがって」
鉄を叩く音が響く。政夫の決意は固く、重い。
千夜子は、自分の手に握られた見えない筆が、ポロポロと崩れていくような感覚に陥った。
美しさや言葉を求めることは、この家では「罪」に近いのかもしれない。
兄の成功への執念に圧倒されながら、千夜子は自らの夢を、深い心の奥底へと埋めていくしかなかった。




