第2章 産みの苦しみと、夢に見た息子の未来
【鉗子の傷と、光の予言】
昭和四十二年。岡崎の安アパートでの暮らしは、困窮の極みにあった。
都会のエリートであった誇りを捨てきれず、現実に適応できない俊郎は、次第に労働を拒むようになっていた。
家計は千夜子がその細い肩ですべて背負っていた。 俊郎はうつろな目で窓の外を眺めては、
「今日の天竜川は流れが速い」
「諏訪湖ではそろそろ御神渡りが始まる頃だ」
と、遠い信州の情景を、あたかも今見ているかのように呟くばかりだった。
そんな中、千夜子の体に新しい命が宿る。
日々の労働と困窮に追われ、気づいた時には、もう引き返すことのできない月日に突入していた。
「……産むしかない」
予定日は五月二十九日。
しかし、その日を過ぎても新しい命が産声を上げる気配はなかった。
【雷鳴の誕生、凄惨な分娩】
六月初旬。激しい雷鳴が轟き、叩きつけるような雨が岡崎の街を洗った。
それは、後に数多の苦難を切り拓いていく「進」という男の、波乱に満ちた誕生を予告するかのようだった。
六月二日。千夜子は分娩室へと運び込まれた。
しかし、そこで待っていたのは、数十時間に及ぶ地獄のような難産だった。
もともと小柄で骨盤の小さかった千夜子の体に対し、胎児の頭はあまりに大きく、産道に固く挟まったまま動かなくなった。
「心音が弱まっている!」
医師の叫びが響く。
母体の安全か、子の命か。
極限の緊張の中、医師は巨大な吸盤と、冷たく光る金属のへらのような「鉗子」を取り出した。
強引に胎児を引きずり出す。
何度も、何度も。 ようやく取り出された赤ん坊の頭は、激しい吸引と鉗子の圧力によって歪み、血と傷にまみれていた。
最初は、産声すらなかった。
わずかな沈黙の後、漏れ聞こえてきたのは、あまりに弱々しく、消え入りそうな泣き声だった。
「……吸引と鉗子分娩を実施しました。母体の命を優先した結果です。知的障害の覚悟はしておいてください」
医師の冷徹な宣告に、廊下で待っていた俊郎は頭を抱えて崩れ落ちた。
「知的障害……そんな子が、自分たちに育てられるのか」
千夜子は、意識が朦朧とする中でその言葉を遠く聞いていたが、反論する気力さえ残っていなかった。
挿入曲:水原弘『君こそわが命』
病室のラジオからは、その年、街中に流れていた水原弘の重厚な歌声が静かに漏れていた。
♪あなたをほんとは さがしてた
♪汚れ汚れて 傷ついて
♪死ぬまで逢えぬと 思っていたが
♪けれどもようやく 虹を見た
♪あなたのひとみに 虹を見た
♪君こそ命 君こそ命 わが命
【夢の啓示】
その夜、疲弊しきった千夜子は不思議な夢を見た。
そこは、目が眩むほど明るい光に包まれた舞台だった。
何百人、何千人という聴衆を前に、堂々と、そして熱く語りかける一人の成人男性が立っている。
(あそこに、誰かいる)
遠くから見守る千夜子の目に映ったのは、俊郎にそっくりな、しかし父よりもずっと力強い眼差しを持った息子の姿だった。
息子は何か本を手に取り、迷いのない声で人々に語りかけている。
その知的な横顔、その言葉の力強さ。
「ああ、よかった……産んでよかった」
千夜子は涙とともに目を覚ました。
彼女の胸には、もはや医師の言葉など届かない、揺るぎない「直感」が宿っていた。
「この子は、知的障害なんかじゃない。
いつか、大勢の前で言葉を操る人になる」
【「進」の始まり】
幸いにも、その後の検査で赤ん坊に障害は見つからなかった。
俊郎は、勝手に女の子だと決めつけて「鈴代」という名を用意していたが、生まれたのが男の子だと知っても落胆はしなかった。
むしろ、その赤ん坊の顔立ちが千夜子ではなく、自分に驚くほど似ていることに、奇妙な安堵と喜びを感じていた。
赤ん坊には「進」という名がつけられた。 いかなる困難があっても、前へ進み続けるように。
街の電光掲示板には、戦後日本を牽引した吉田茂の国葬のニュースが流れていた。
一つの時代が終わり、新しい「戦い」の時代が始まろうとしていた。
血だらけで、傷だらけで、けれど母の夢の中で光り輝いていた命。
進という一人の男の物語が、ここから静かに、力強く動き出したのである。
【隣人の慈悲と、九千円の絶望】
退院した千夜子に、体を休める時間は与えられなかった。
鉗子の傷がまだ癒えぬ赤ん坊を抱えながら、彼女はすぐにパートの仕事へと復帰した。
相変わらず「天竜川」や「諏訪湖」の情景を反芻し、窓の外を見つめるばかりの俊郎。
かつて都会の冗談で自分を笑わせてくれた面影は、今や現実という重圧に押し潰され、働く気力さえも霧散していた。
【謎の守護聖人】
進の首が据わるかどうかの時期、救いの手は意外なところから差し伸べられた。
隣の部屋に住む一人暮らしの中年女性。
かつて保母をしていたという彼女は、千夜子が働きに出ている間、進をまるで自分の孫のように慈しみ、面倒を見てくれた。
「千夜子さん、気にせず行っておいで。この子は私がしっかり見ておくから」
なぜ、これほどまでに無償の愛を注いでくれるのか。
そして、彼女自身がどこから収入を得て生活しているのか、千夜子には最後まで謎のままだった。
しかし、殺伐としたアパートの廊下で交わされるその優しさだけが、千夜子を「母親」という孤独な檻から救い出していた。
【汗と逃避】
俊郎も、ようやく重い腰を上げて仕事を始めた。
しかし、かつて「代々木のエリート」であった彼にとって、泥にまみれ、汗を流す労働は耐え難い屈辱でしかなかった。
「汗が目に入って痛いんだ」
「現場の言葉遣いが下品で耐えられない」
そんな些細な理由を並べては、わずか数日で職を転々とする。
その度に千夜子の胸には、かつて大工修行を「1ヶ月前」に辞めた兄・政夫の言葉が、皮肉な響きを持って蘇っていた。
それでも、仕事はやっと1ヶ月続いたことがあった。
今日は運命の給料日。
手渡しで給料袋が渡される日だ。
【深夜一時の宣告】
千夜子は、まだ幼い進を抱きかかえ、暗い部屋で俊郎の帰りを待っていた。
時計の針が深夜一時を回った頃、玄関の戸が荒々しく開いた。
漂ってきたのは、安酒の強烈な匂いと、酩酊した俊郎の足音だった。
「……ただいま」
俊郎は壁に寄りかかり、焦点の定まらない目で千夜子を見つめた。
そして、くしゃくしゃになった封筒を、畳の上に放り出した。
「今月……家に入れる金は、九千円しかない。残りは、付き合いで使った」
九千円。
家賃を払い、進のミルクを買い、自分たちの命を繋ぐにはあまりに無残な、あまりに冷酷な数字だった。
千夜子は、その薄い封筒を見つめたまま絶句した。 外では夜の雨が静かに降り続いていた。




