表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/23

第2章 産みの苦しみと、夢に見た息子の未来

【鉗子の傷と、光の予言】


昭和四十二年。岡崎の安アパートでの暮らしは、困窮の極みにあった。

都会のエリートであった誇りを捨てきれず、現実に適応できない俊郎は、次第に労働を拒むようになっていた。

家計は千夜子がその細い肩ですべて背負っていた。 俊郎はうつろな目で窓の外を眺めては、

「今日の天竜川は流れが速い」

「諏訪湖ではそろそろ御神渡りが始まる頃だ」

と、遠い信州の情景を、あたかも今見ているかのように呟くばかりだった。


そんな中、千夜子の体に新しい命が宿る。

日々の労働と困窮に追われ、気づいた時には、もう引き返すことのできない月日に突入していた。

「……産むしかない」

予定日は五月二十九日。

しかし、その日を過ぎても新しい命が産声を上げる気配はなかった。


【雷鳴の誕生、凄惨な分娩】


六月初旬。激しい雷鳴が轟き、叩きつけるような雨が岡崎の街を洗った。

それは、後に数多の苦難を切り拓いていく「進」という男の、波乱に満ちた誕生を予告するかのようだった。


六月二日。千夜子は分娩室へと運び込まれた。

しかし、そこで待っていたのは、数十時間に及ぶ地獄のような難産だった。

もともと小柄で骨盤の小さかった千夜子の体に対し、胎児の頭はあまりに大きく、産道に固く挟まったまま動かなくなった。

「心音が弱まっている!」

医師の叫びが響く。

母体の安全か、子の命か。

極限の緊張の中、医師は巨大な吸盤と、冷たく光る金属のへらのような「鉗子かんし」を取り出した。


強引に胎児を引きずり出す。

何度も、何度も。 ようやく取り出された赤ん坊の頭は、激しい吸引と鉗子の圧力によって歪み、血と傷にまみれていた。

最初は、産声すらなかった。

わずかな沈黙の後、漏れ聞こえてきたのは、あまりに弱々しく、消え入りそうな泣き声だった。


「……吸引と鉗子分娩を実施しました。母体の命を優先した結果です。知的障害の覚悟はしておいてください」


医師の冷徹な宣告に、廊下で待っていた俊郎は頭を抱えて崩れ落ちた。

「知的障害……そんな子が、自分たちに育てられるのか」

千夜子は、意識が朦朧とする中でその言葉を遠く聞いていたが、反論する気力さえ残っていなかった。


挿入曲:水原弘『君こそわが命』


病室のラジオからは、その年、街中に流れていた水原弘の重厚な歌声が静かに漏れていた。


♪あなたをほんとは さがしてた

♪汚れ汚れて 傷ついて

♪死ぬまで逢えぬと 思っていたが

♪けれどもようやく 虹を見た

♪あなたのひとみに 虹を見た

♪君こそ命 君こそ命 わが命


【夢の啓示】


その夜、疲弊しきった千夜子は不思議な夢を見た。

そこは、目が眩むほど明るい光に包まれた舞台だった。

何百人、何千人という聴衆を前に、堂々と、そして熱く語りかける一人の成人男性が立っている。


(あそこに、誰かいる)


遠くから見守る千夜子の目に映ったのは、俊郎にそっくりな、しかし父よりもずっと力強い眼差しを持った息子の姿だった。

息子は何か本を手に取り、迷いのない声で人々に語りかけている。

その知的な横顔、その言葉の力強さ。


「ああ、よかった……産んでよかった」


千夜子は涙とともに目を覚ました。

彼女の胸には、もはや医師の言葉など届かない、揺るぎない「直感」が宿っていた。

「この子は、知的障害なんかじゃない。

いつか、大勢の前で言葉を操る人になる」


【「進」の始まり】


幸いにも、その後の検査で赤ん坊に障害は見つからなかった。

俊郎は、勝手に女の子だと決めつけて「鈴代すずよ」という名を用意していたが、生まれたのが男の子だと知っても落胆はしなかった。

むしろ、その赤ん坊の顔立ちが千夜子ではなく、自分に驚くほど似ていることに、奇妙な安堵と喜びを感じていた。


赤ん坊には「すすむ」という名がつけられた。 いかなる困難があっても、前へ進み続けるように。


街の電光掲示板には、戦後日本を牽引した吉田茂の国葬のニュースが流れていた。

一つの時代が終わり、新しい「戦い」の時代が始まろうとしていた。

血だらけで、傷だらけで、けれど母の夢の中で光り輝いていた命。

進という一人の男の物語が、ここから静かに、力強く動き出したのである。


【隣人の慈悲と、九千円の絶望】


退院した千夜子に、体を休める時間は与えられなかった。

鉗子の傷がまだ癒えぬ赤ん坊を抱えながら、彼女はすぐにパートの仕事へと復帰した。

相変わらず「天竜川」や「諏訪湖」の情景を反芻し、窓の外を見つめるばかりの俊郎。

かつて都会の冗談で自分を笑わせてくれた面影は、今や現実という重圧に押し潰され、働く気力さえも霧散していた。


【謎の守護聖人】


進の首が据わるかどうかの時期、救いの手は意外なところから差し伸べられた。

隣の部屋に住む一人暮らしの中年女性。

かつて保母をしていたという彼女は、千夜子が働きに出ている間、進をまるで自分の孫のように慈しみ、面倒を見てくれた。


「千夜子さん、気にせず行っておいで。この子は私がしっかり見ておくから」


なぜ、これほどまでに無償の愛を注いでくれるのか。

そして、彼女自身がどこから収入を得て生活しているのか、千夜子には最後まで謎のままだった。

しかし、殺伐としたアパートの廊下で交わされるその優しさだけが、千夜子を「母親」という孤独な檻から救い出していた。


【汗と逃避】


俊郎も、ようやく重い腰を上げて仕事を始めた。

しかし、かつて「代々木のエリート」であった彼にとって、泥にまみれ、汗を流す労働は耐え難い屈辱でしかなかった。

「汗が目に入って痛いんだ」

「現場の言葉遣いが下品で耐えられない」

そんな些細な理由を並べては、わずか数日で職を転々とする。

その度に千夜子の胸には、かつて大工修行を「1ヶ月前」に辞めた兄・政夫の言葉が、皮肉な響きを持って蘇っていた。


それでも、仕事はやっと1ヶ月続いたことがあった。

今日は運命の給料日。

手渡しで給料袋が渡される日だ。


【深夜一時の宣告】


千夜子は、まだ幼い進を抱きかかえ、暗い部屋で俊郎の帰りを待っていた。

時計の針が深夜一時を回った頃、玄関の戸が荒々しく開いた。

漂ってきたのは、安酒の強烈な匂いと、酩酊した俊郎の足音だった。


「……ただいま」


俊郎は壁に寄りかかり、焦点の定まらない目で千夜子を見つめた。

そして、くしゃくしゃになった封筒を、畳の上に放り出した。


「今月……家に入れる金は、九千円しかない。残りは、付き合いで使った」


九千円。

家賃を払い、進のミルクを買い、自分たちの命を繋ぐにはあまりに無残な、あまりに冷酷な数字だった。

千夜子は、その薄い封筒を見つめたまま絶句した。 外では夜の雨が静かに降り続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ