第2章 歪んだ鏡の家
【新しい茨の道】
千夜子と進は、木島と暮らす道を選んだ。
三人での生活。
それは、夜の帳に消えていく千夜子の背中を進が見送る日々に終止符を打ち、温かな家庭という名の港へ辿り着くための再出発であるはずだった。
しかし、安アパートでの新生活、その扉の向こうに待っていたのは、安らぎではなく、じわじわと真綿で首を絞められるような地獄の予感であった。
木島という男は、義務教育を終えると同時に左官の世界へ身を投じた叩き上げの職人だった。
その硬い手には誇りがあったはずだが、胸の奥底には、学歴という名の拭いがたい劣等感が澱のように溜まっていた。
「中卒」というレッテルを恐れるあまり、彼は歪んだ形で自らの知性を誇示しようと躍起になった。
彼は家でニュース番組しか見なかった。
活字という、彼にとっての「読めない迷宮」を避け、流れてくる映像と音声だけで手軽に武装しようとしたのだ。
【空虚なニュースの音】
木島は、仕事から帰ると一言も発さずにテレビをつけた。
流れてくるのは、いつも決まってNHKのニュースか、堅苦しい報道番組だけだ。
彼は画面を見据え、さも重大な局面を理解しているかのように、時折「ふん」と鼻を鳴らしたり、「全くなってないな」と独り言を漏らしたりした。
かつての夫・俊郎は、生活力こそなかったが、その言葉には常に教養の裏打ちがあった。
信州の実家で文字に囲まれて育った千夜子にとって、俊郎との会話は、たとえ困窮していても知的な充足感を与えてくれるものだった。
しかし、木島には全くそれがなかった。
木島が口にする政治批判や経済の展望は、すべてテレビのキャスターが言ったことの焼き直しに過ぎない。
自分の頭で考え、言葉を紡ぐことのできない男。
千夜子は、木島の横顔を見ながら、言いようのない空虚さを感じていた。
【進の沈黙】
八歳になった進は、そんな木島の様子を、まるで異生物を見るような冷ややかな目で見つめていた。
進は、図書館で借りてきた分厚い本を片時も離さない。
メンデルの法則、地政学、SFの宇宙観。
進が本の中から拾い上げてくる知識は、テレビから流れる薄っぺらな情報よりも、はるかに深く、鋭い。
木島は、黙々と本を読む進に対して、無意識のうちに脅威を感じていたのだろう。
「おい進、そんな本ばっかり読んでないで、ニュースを見ろ。世の中の動きを知らなきゃ、男は一人前になれんぞ」
木島の言葉には、職人特有の荒っぽさと、それを覆い隠そうとする虚勢が混ざり合っていた。
進は、本から目を離さず、短く「……分かってるよ」とだけ答えた。
その瞬間の、木島の顔に浮かぶ、煮え切らないような、恥をかかされたような表情を、千夜子は見逃さなかった。
【拭えぬ違和感】
千夜子は台所に立ちながら、この「歪んだ家」の行く末を案じた。
俊郎は気が弱く、教養に逃げた。
木島は気が荒く、情報で武装した。
正反対の二人。
けれど、どちらも目の前の「現実」と向き合えていない点では、同じではないか。
木島がテレビに向かって吐く威勢のいい言葉が、千夜子の耳には、まるで空っぽのブリキ缶が風に吹かれて鳴っている音のようにしか聞こえなかった。
(私たちは、本当に港に辿り着いたのだろうか……)
深夜、放送終了後のテレビから砂嵐が流れる頃、千夜子は眠る進の寝顔を見つめながら、かつて自分が捨てた「帰り船」のメロディを、心の奥底で反芻していた。
鏡の再会と、二度目の断絶(千夜子視点)
木島との、言葉の通じない生活に摩耗していたある日、一本の電話が鳴った。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、耳に馴染んだ、けれどもう二度と聞くことはないと思っていたあの男、俊郎の声だった。
「……千夜子か。実は今、大垣の中堅企業に中途採用が決まってね。正社員として働いているんだ」
俊郎の話では、不義理をしていた知人への借金もすべて返し終え、もうお金の心配はないという。
「やり直さないか。今度こそ、君と進を幸せにできる」
その言葉に、千夜子の心は激しく揺れ動いた。木島の荒い口調と、テレビのニュースをなぞるだけの空虚な日々に疲れ果てていた私にとって、俊郎の持つ「教養」と「穏やかさ」は、毒だと分かっていても吸い込みたい酸素のように思えたのだ。
【鏡の中の二人】
俊郎は、復縁の足がかりとして、進に頻繁に会いたがった。
会うたびに、進が欲しがる専門的な本を惜しみなく買い与え、進の「解説」をかつてのように熱心に、そして深く理解しながら聞いた。
進の顔に、木島との生活では見られなかった晴れやかな笑みが戻っていく。
ある日、三人が集まった際、進と俊郎が並んで洗面台の鏡の前に立つ瞬間があった。
「……あ」
千夜子は、思わず息を呑んだ。
鏡の中に映っていたのは、親しみやすく、丸みのある顔立ちの2人だった。
2人とも、非常に優しく、性格の良さが表情に表れている。
八歳になった進は、驚くほど俊郎に似ていた。
「パパ、僕にそっくりだね」
進が呟くと、俊郎も照れたように笑った。
「いや、僕が君に似てきたのかもしれないな」
その光景は、あまりに「正しい家族」に見えた。
鈴木ふさゑが呪いのように放った『パパにそっくり』という言葉さえ、この時の千夜子には、愛おしい絆の証のように思えてしまったのだ。
【暴かれた虚飾】
しかし、その幸福は長くは続かなかった。
千夜子がふとしたきっかけで、俊郎が大垣で借りているというアパートを訪ねた際、隠されていた真実が露呈した。
大垣の企業に勤めているのは事実だった。
しかし、「借金完済」というのは真っ赤な嘘だった。
それどころか、進に本を買い与える金さえ、新たな借金で賄っていたことが判明したのだ。
俊郎の病は、何一つ治っていなかった。
「見栄」という名の麻薬を打つために、彼は再び家族を騙し、沼へと引きずり込もうとしていた。
千夜子は、絶望を通り越して、冷ややかな怒りが全身を駆け巡るのを感じた。
【二度目の別れ】
その夜、千夜子は進と二人で向き合った。
「進、パパはね、また嘘をついていたの。本当はお金なんてなかった。このまま戻れば、またあの岡崎の時のように、夜逃げをする生活が待っているわ」
進は、買ってもらったばかりの本をそっと閉じ、静かに千夜子を見つめた。
「……分かってるよ、ママ。パパは、本を読むのは得意だけど、生きるのが下手なんだね」
八歳の子供とは思えぬ、残酷なほど冷静な分析だった。進の目には、鏡に映った「父への憧憬」はもうなかった。
「僕は、ママが泣くのはもう見たくない。パパとは、もう会わなくていいよ」
数日後、千夜子は俊郎を呼び出し、二度目の、そして決定的な別れを切り出した。
「あなたは鏡の中に理想を見ているだけ。私たちは、あなたの夢の道具じゃない」
縋り付く俊郎を振り切り、千夜子は進の手を引いて歩き出した。
鏡に映る二人は似ていたかもしれない。けれど、進の中には、父にはなかった「現実を直視する強さ」が、千夜子の絶望を肥料にして、確かに芽吹いていた。
もちろん、こうした出会いと別れは、木島には内緒だった。
木島の知らないところで、一つの可能性が生まれ、そして消えたのだった。




