第1章 母・智代の死
【良妻賢母の落第生と、凍てついた病室】
1975年。信州の山々に雪が降り積もる頃、千夜子の母・智代が倒れた。
癌はすでに全身に転移しており、医師から下された余命宣告は、智代が還暦を迎えてすぐのことだった。
「……千夜子に会いたい」
病床で智代が千冬に漏らしたその願いは、岡崎から名古屋へと流転し、離婚を経て、今また不穏な再婚の入り口に立つ千夜子のもとへ届いた。
千夜子は見舞いに訪れた。
痩せ細った母の姿を目の当たりにしても、千夜子の心に波風は立たなかった。
かつて父・治郎蔵が亡くなったとき、世界が崩れるほどの悲しみに暮れたのとは対照的だった。
「この人が、あの家を壊したんだ」
病床で喜ぶ母を見つめながらも、千夜子の内側にある冷徹な拒絶は、決して受容へと変わることはなかった。
【智代の回想:裁縫箱と絶望】
死の淵で、智代は六十一年の人生を反芻していた。
智代にとっての人生は、常に「期待される女子像」との戦いであり、敗北の連続だった。
かつて通った旧制高等女学校。
それは当時の女性にとって特権的な教育の場だった。
智代は国語や歴史の成績は際立って優秀で、古の文学や英雄たちの物語に胸を躍らせていた。
しかし、当時の女学校が求めていたのは「学問を究める徒」ではなく「良妻賢母の雛形」だった。
配点の高い「裁縫」や「家事」の授業。
布を真っ直ぐに縫うこと、忍耐強く針を動かすこと。それが女子の「徳性」を測る指標とされていた時代において、手先の不器用な智代は「実生活に役立たない不完全な女子」という烙印を押された。
英語や数学を論じる彼女は「理屈ばかり言う生意気な娘」として敬遠された。
さらに、家運の没落が彼女を追い詰めた。
高額な授業料が払えなくなり、中退を余儀なくされたあの日。
学校側から投げかけられたのは、あまりに冷酷な言葉だった。
「裁縫もできない、家事も苦手。そんなお前のような女は、この学校にも、これからの社会にも必要ない」
学歴の断絶は、彼女にとって「人間としての価値の否定」と同義だった。
家庭を切り盛りする能力がないと見なされた智代は、その劣等感を埋めるかのように、文字の世界へ、そして子供たちへの執拗な支配へと逃避していったのかもしれない。
智代は智代なりに、自分を否定し続ける世界の中で必死に「母」という役割を演じようと励んできた人生だった。
【淡々とした決別】
智代の危篤が報らされ、きょうだいが病院に集結した。
八千代と隆夫、そして一番の理解者であった千冬は、迫り来る死の足音に取り乱し、涙を流していた。
しかし、かをり、政夫、そして千夜子の三人は、石像のように動かず、淡々とその時を待っていた。
政夫が、千夜子の隣で誰にも聞こえないような小声で呟いた。
「……俺は、この人を死んでも許さない」
その言葉には、かつて大工修行を投げ出し、母の期待という重圧に押し潰された長男の、剥き出しの憎悪が宿っていた。
千夜子は、その言葉を否定しなかった。
ただ黙って頷き、酸素吸入器の音だけが響く病室の天井を見つめた。
自分を愛してくれた父を追い詰め、自分を文字の檻に閉じ込め、愛なき結婚へと追い込んだ母。
死の間際にあっても、千夜子の心にあるのは「悲しみ」ではなく、一つの時代がようやく終わるという「虚無」に近い納得だった。
進は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
母と叔父・政夫の間に漂う、凍りついたような空気。 「血が繋がっていても、分かり合えないことがある」 理屈っぽい少年は、死を目前にした祖母の姿よりも、母の横顔に刻まれた消えない傷の深さを、静かに観察していた。
【遺灰と拒絶、打ち捨てられた位牌】
智代が息を引き取り、信州の古びた家で葬儀が執り行われた。
千夜子は、幼い進を連れてくることはしなかった。
呪縛の連鎖は、自分の代で断ち切りたかった。
この陰惨な別れの儀式を、あの子の清浄な記憶に混ぜたくはなかったのだ。
葬儀の場には、智代が晩年にのめり込んでいた新興宗教の関係者が大勢詰めかけていた。
彼らは独自の儀式を執り行おうと騒めいていたが、喪主を務める長男・政夫がそれを一喝した。
「葬儀は近くの真言宗の寺に頼んである。ここの流儀に従うなら参列してもいいが、嫌なら今すぐ帰れ」
政夫の言葉は、氷のように冷たく、一切の妥協を許さない響きがあった。
宗教関係者たちの多くは顔をしかめ、憤慨しながら次々と去っていった。
残されたのは、重苦しい沈黙と、線香の煙だけだった。
【学者の弔いと、政夫の棘】
そこへ、智代がかつて「文字の世界」で交流を持っていた友人たちが訪れた。
中には、女学校時代からの縁か、今や日本を代表する高名な学者の姿もあった。
彼らは智代の知性を惜しみ、丁重な言葉を並べたが、政夫の棘は彼らに対しても容赦なく向けられた。
「……高尚な学問の話なら、あっち(死体)に話してやってくれ。俺たちには、あんたらの言葉は一銭の価値もない」
学問の徒として智代を称賛する彼らの言葉は、母のネグレクトに近い教育に苦しんできた政夫や千夜子にとっては、無責任な「外野の騒音」に過ぎなかった。
学者は困惑した表情を浮かべたが、政夫は参列を拒みこそしなかったものの、背を向けたまま二度と目を合わせようとはしなかった。
【粉砕された仮位牌】
儀式の最中、白木の「仮位牌」が用意された。
戒名が刻まれたその木片を見つめていた政夫の堪忍袋の緒が、不意に切れた。彼は位牌をひったくるなり、冷たい板の間に力任せに投げつけた。
「ガラン」という乾いた音とともに、仮位牌は無残に砕け、飛び散った。
「……こんなもの、何の意味がある」
吐き捨てる政夫の横で、千夜子は表情を変えず、床に散った木片を静かに拾い上げた。
そして、それを躊躇なくゴミ箱へと捨てようとした。
「千夜子、待てよ」
兄の隆夫が、困り果てた顔で声をかけた。
「それ、後で黒塗りの新しい位牌に替えてもらうまでの『仮』のものなんだよ。壊しちゃうと手続きとか、いろいろ面倒なことになるんだって」
隆夫の言葉は、この修羅場においてあまりに世俗的で、事務的だった。
千夜子はゴミ箱の上に手を止めたまま、一度だけ隆夫の顔を見た。
その瞳には、悲しみも怒りもなく、ただ深い空虚だけが宿っていた。
「……そう」
千夜子は冷たく呟くと、砕けた木片をそのままゴミ箱の底へと突き落とした。
母・智代が六十一年かけて築き上げようとした「誇り」も「知識」も「体面」も、千夜子の手の中では、ただの燃えないゴミに過ぎなかった。




