第7章 活字の城塞と、深夜の解説者、そして新しい家族
【栴檀は双葉より芳しい?】
鈴木ふさゑから放たれた毒矢は、幼い進の胸の深くに突き刺さったまま、消えない痛みとなって残っていた。
「栴檀は双葉より芳し」
無能な種からは、無能な芽しか出ないというあの宣告。
千夜子は、進がその言葉を確かめようと、取り憑かれたように図書館へ通い始めたことに気づいていた。
ある夜、千夜子は進が借りてきた本をそっと開いてみた。そこには『平家物語』の一節があった。
「栴檀は双葉より芳し、大鵬は卵のうちより天を翔ける志あり……」
千夜子はその文字をなぞりながら、胸を締め付けられるような思いがした。
進はこの古めかしい文体の中に、自分自身の「判決」を探しているのだ。
子供向けの歴史漫画にあった北条氏康の「汁かけ飯」の逸話。
何度も汁を足した息子・氏政に、名将が絶望する場面。
進はそのページを、穴が開くほど読み返していた。
父・俊郎の血を継いだ自分は、あの氏政のように、最初から「手遅れ」なのだろうか。
そんな悲痛な自問自答が、小さな背中から漏れ聞こえるようだった。
【千冬への相談】
どうしても不安を拭いきれず、千夜子は妹の千冬に相談した。
進が最近、歴史やメンデルの法則、宇宙の知識を驚異的な速さで吸収し、それを大人顔負けの口調で解説すること。
そして、その理屈っぽさのせいで周囲から孤立していることを。
千冬は進の様子をしばらく観察した後、驚いたように言った。
「お姉ちゃん、進くんのこれは凄い能力だよ。普通の子供が『なぜ?』で終わるところを、彼は根拠を見つけるまで調べ尽くそうとしてる。この集中力は並大抵じゃないわ」
だが、千冬の顔には曇りもあった。
「でもね……正直に言うよ。この子は周りから『変わり者』扱いされるのを避けられないと思う。正しいことに執着しすぎて、空気を読むなんてことは彼にはできない。ダメなことはとことんダメっていう頑固さがある。組織の中で器用に立ち回るような、普通の仕事は向かないかもしれないね」
千冬の言葉は、千夜子の胸に重く響いた。
進の才能は、この社会では諸刃の剣になるのかもしれない。
【深夜一時の聖域】
千夜子は生活のため、個人経営の飲み屋を切り盛りしていた。
深夜にしか帰れない千夜子に、進は「一時には帰ってきて」と縋るように約束を取り付けた。
深夜一時。
静まり返った茶の間のテレビからは、放送終了間際の小坂明子『あなた』が流れていた。
♪もしも私が 家を建てたなら 小さな家を 建てたでしょう♪
♪大きな窓と 小さなドアと 部屋には古い 暖炉があるのよ♪
夜の街の喧騒と酒の匂いをまとって帰宅する千夜子にとって、その歌が描く「理想の家庭」はあまりに遠く、切なかった。
そっと鍵を開けると、寝ていたはずの進が跳ねるように起き上がる。
枕元には、その夜の「講義」のために準備された本が整然と並んでいた。
「解説は三十分だけよ」
それが、疲弊した千夜子が差し出せる精一杯の愛の妥協点だった。
進は千夜子の上着から漂うタバコの匂いも気にせず、夢中でページを捲った。
ロッキード事件の裏側、火星人の来襲、宇宙の果て。
千夜子は、その熱弁を振るう息子の瞳の中に、かつて病室の夢で見た「大勢の前で語る男」の面影を重ねていた。
「この子は、氏政なんかじゃない。栴檀の木は、もう芽を出している」
千夜子は自分に言い聞かせるように、進の頭を撫でた。
【蜃気楼の幸福】
そんな折、千夜子の前に左官の親方である木島という男が現れた。
「結婚したら、家を買ってあげる。ずっと家にいてほしい」
その言葉は、泥水を啜るような日々に差し込んだ甘い光だった。千夜子は進に問いかけた。
「新しいお父さんが来ても、いいかな?」
進は深く頷いた。
母が夜の街に出なくて済む。
家で自分の話を、もっと長く聞いてくれるかもしれない。
二人は「普通の幸せ」という蜃気楼に向かって、再び歩き始めた。
だがそれが、さらなる流転の入り口であることを、その時の千夜子はまだ知る由もなかった。
【親方・木島の虚飾と血脈】
千夜子の前に現れた木島という男。
その手は左官職人らしく分厚く、指の隙間には白く乾いた漆喰の跡が染み付いていた。
彼は千夜子に対し、「家を買ってやる」「もう働かなくていい」と、これまでの苦労をすべて洗い流すような言葉を並べた。
だが、その強引な包容力の裏側には、彼自身が泥の中から這い上がろうとして身につけた、歪な生存本能が隠されていた。
【泥の中の少年期】
木島の生い立ちは、貧困そのものだった。
高度経済成長の光が届かないような、長屋暮らしの少年時代。父親は日雇い労働で食い繋ぎ、明日をも知れぬ生活の中で、木島は「金こそが力だ」という価値観を骨の髄まで叩き込まれた。
中学校を卒業すると同時に、彼は左官の世界へ飛び込んだ。
持ち前の手先の器用さで、鏝を握れば誰よりも美しい壁を塗った。
だが、荒っぽい職人たちの世界で生き抜くうちに、彼の口調は荒れ、言葉を暴力のように扱う男へと変貌していった。
彼にとって「優しさ」とは、相手を支配し、所有することと表裏一体だったのである。
【隠された破綻】
木島には離婚歴があった。
千夜子には「性格の不一致だった」と淡々と説明していたが、その実態は、彼の激しい気性と支配欲が生んだ、凄まじい家庭内不和だった。
前の妻は、彼の罵声と圧迫感に耐えきれず、逃げるように去っていった。
木島は、その事実を巧妙に隠し通した。
千夜子の前では、頼りがいのある「一国一城の主」という仮面を被り続けていたのだ。
【「年金運搬機」と呼ぶ母】
木島の両親は健在だったが、その家庭環境もまた、進の周囲にいた大人たちと同じように、冷徹な仮面夫婦だった。
世間体のためだけに離婚せず、同じ屋根の下で言葉を交わすこともない。木島の母は、長年連れ添った夫に対し、もはや人間としての敬意を一切失っていた。
「あれはただの、年金運搬機だよ」
母が吐き捨てるように放ったその言葉は、木島の耳に、ある種の「真理」として刻まれていた。
男は稼いでこそ価値があり、稼がなくなればモノと同じ。
木島が千夜子に対し、「家を買う」「養う」と経済力を誇示するのは、そうしなければ自分もまた「運搬機」として切り捨てられるという、根源的な恐怖の裏返しでもあった。
千夜子は、木島の背後にあるこの澱んだ空気にはまだ気づいていなかった。
ただ、進が叔父の慶彦から聞いた「中東情勢」や「砂上の楼閣」という不穏な予言を思い出していたとき、木島は自信満々に、新しい家の図面をテーブルに広げた。
「千夜子、この家は俺の力で建ててやる。進も、これからは広い部屋で本が読めるぞ」
その声は力強かったが、千夜子の耳には、どこか空疎な響きが混じっているようにも思えたが、一方でこの人と一緒になれば楽になれるかもしれないという思いが捨てきれなかった。
【漆喰の掟と、歪んだ教育】
木島がかつて築き、そして自らの手で壊してしまった最初の家庭。
その崩壊の引き金は、彼が「絶対的な正義」と信じて疑わなかった、あまりに極端な生活規律であった。
前の妻との間に授かった息子に対し、木島は食卓で常に怒号を浴びせた。
「二分で食え!」
「醤油以外の調味料は使うな!」
客観的に見れば、それは狂気じみた虐待に近い。
だが、木島の脳内では、それは愛する我が子を「一生飯が食える男」に育てるための、血の通った「英才教育」のつもりであった。
【生存戦略としての「早飯」】
昭和三十年代。中学を卒業してすぐに左官の世界に放り込まれた木島にとって、食事は味わうものではなく、過酷な現場を生き抜くための「エネルギー補給」であり、一種の軍事訓練であった。
徒弟制度の現場では、親方や先輩より先に食べ終えるのが鉄則。
もたもたしていれば「やる気がない」「現場の段取りを考えていない」と、容赦ない鉄拳や叱責が飛んだ。
親方が昼休憩を終えて戻る前に、材料を練り直し、足場を整え、午後の死闘に備える。
食事にかけられる時間は五分から十分。それが職人としての「筋」であり、生存戦略だった。
左官の仕事は、壁が乾き始める瞬間の「ここだ!」という一瞬を逃せば、すべてが台無しになる。
常に時間に追われ、一瞬の油断も許されない極限の緊張感。
その中で一生を過ごしてきた木島にとって、ダラダラと時間をかけて食事を楽しむ現代的な感覚は、破滅へ向かう「甘え」や「油断」にしか見えなかったのである。
「食うのが遅いだけで、一生飯が食えなくなるぞ!」
彼が息子に強いた「二分」という数字は、過酷な現場を生き抜いてきた男が抱く、切実な危機感の表れであった。
【醤油一本の美学】
また、調味料への執着も、単なる味好みの問題ではなかった。
土、砂、石灰といった「素材そのもの」の性質を見極め、最小限の道具で最高の結果を出す左官職人にとって、ソースやコショウといった強い刺激で味を上書きすることは、素材を殺す「邪道」に見えた。
「あるもので腹を満たせ。贅沢を言うな」
昔の建築現場では、支給された弁当に不平を言うことは許されなかった。
身近な醤油だけで満足し、浮ついた欲を持たず、地道に土と向き合って生きる。
木島にとって「醤油で我慢すること」は、どんな環境でも不平を言わず生き抜く精神力の象徴であり、職人としての誇り(アイデンティティ)そのものだったのである。
【虚飾の誓い】
木島は、そのあまりに強固な哲学が原因で家庭が崩壊したことを、心の片隅では理解していた。
(千夜子との再婚では、あんな厳しいことは言うまい……)
彼はそう心に誓っていた。
しかし、教養のない自分を「情報収集」という名の武装で補わなければならないという強迫観念だけは、どうしても抜けなかった。
自分の価値観を押し付けまいと必死に抑制する一方で、木島は千夜子や進に対し、無意識のうちに「職人の理屈」で世界を断罪しようとする危うさを孕んでいた。
「進、男っていうのはな、段取りがすべてなんだぞ」
新しい家の図面を前にそう語る木島の瞳には、進の父・俊郎とは正反対の、しかし同様に極端で偏った「強さ」が宿っていた。
千夜子は、その強さに安らぎを感じながらも、時折木島が見せる「時間の遅れに対する異様な苛立ち」に、かすかな不安を覚えずにはいられなかった。




