第6章 揺れる哀歌と二つの「終わり」
【夜の波止場、揺れる帰り船】
昭和四十八年の冬。 狂乱物価の嵐が吹き荒れる中、千夜子はついに限界の底を打った。
体調が回復し、職を得たはずの俊郎だったが、染み付いた散財癖は病のように彼を蝕み続けていた。
手当たり次第に知人から借り重ねた金の総額は、もはや千夜子のパート代で埋められる溝を越え、雪だるま式に膨れ上がっていた。
幸いにしてヤミ金にまでは手を出していなかったが、サラリーマン金融の執拗な足音は、日ごとにアパートの薄い壁を叩くようになっていた。
深夜、千夜子は眠っていた進を静かに揺り起こした。
「進、行くわよ。静かにね」
必要最小限の荷物を積み込んだ大型トラックの助手席に、進を座らせる。
俊郎が力なくハンドルを握り、一家は住み慣れた岡崎の地を捨て、闇に紛れて名古屋へと向かう「夜逃げ」を決行した。
【バタやんの哀歌】
深夜の国道一号線。
大型エンジンの重低音が、車内の息詰まるような沈黙を震わせていた。
カーステレオからは、千夜子が心の拠り所としていた「バタやん」こと田端義夫の、湿り気を帯びた独特の節回しが流れていた。
『十九の春』の物悲しい旋律が終わり、やがて『帰り船』のメロディが静かに車内に満ちていく。
♪波の背の背に 揺られて揺れて
♪夢もわびしく よみがえる
♪捨てた未練が 未練となって 今も昔のせつなさよ
(また、逃げた。私はいつまで、逃げ続けなければならないのか)
千夜子は後部座席で膝を抱え、深く俯いていた。
岡崎から名古屋。
距離にすればわずかな移動かもしれない。
しかし、一歩踏み出すごとに「まっとうな生活」の足場が崩れ落ちていく感覚に、彼女は言いようのない屈辱と孤独を噛み締めていた。
【崩壊の振動】
助手席の進は、重く垂れ込めた窓の外の闇をじっと見つめていた。
トラックがバイパスの継ぎ目を越えるたび、車体は激しく揺れ、その振動は文字通り進の日常の崩壊を揺さぶっていた。
「……お父さん、どこへ行くの」
進の小さな問いに、俊郎は答えなかった。
ただ、前方の闇を凝視する彼の横顔には、かつて代々木で見せたエリートの片鱗もなく、ただ借金と現実に追い詰められた一人の「弱き男」の影があった。
バタやんの歌う「故国」という言葉が、今の千夜子にはひどく遠い響きを持っていた。捨てたはずの未練が、涙となって瞼に滲む。
不安と、わずかな諦念を乗せた大型トラック。
それは夜の闇を切り裂きながら、光り輝く大都市・名古屋という名の、未知なる流刑地へと突き進んでいった。
【冷たいコーヒーと、サン・トワ・マミー】
1974年。逃亡の先として選んだ名古屋での潜伏生活も、半年を待たずして破綻の色を帯び始めていた。
環境を変え、土地を変えても、俊郎の根底に巣食う放蕩の癖は治らなかった。
代々木で培われた「金は湧くもの」という幻想は、貧窮の極みにある名古屋の路地裏でさえ彼を支配し、わずかな稼ぎを夜の街へと消えさせていった。
千夜子は、唇を噛み締め、家計の穴を自らの血を流すようにして埋め続けてきた。
しかし、積み重なった嘘と、裏切られ続けた信頼の残骸は、もう彼女の細い肩では支えきれない重さになっていた。
ある、刺すような日差しが照りつける真夏の日だった。
千夜子は、珍しく進の手を引き、「ちょっと、そこまで行きましょう」と誘い出した。
着いたのは、近所の古びた喫茶店だった。
母と外食など一度もしたことがなかった進は、冷房の効いた店内の独特の匂いに驚き、キョロキョロと落ち着かなげに辺りを見回した。
前日、スーパーのくじ引きでたまたま当たった喫茶券。
それが、千夜子が用意した「最後の場所」への招待状だった。
赤いベルベットの椅子。琥珀色の空気。
千夜子は落ち着いた声で、進に注文を聞いた。
「進、何がいい? 好きなものを言ってごらん」
「……アイスコーヒー。ミルクたっぷりにして」
千夜子も同じものを頼んだ。
運ばれてきたグラスの中、氷がカランと乾いた音を立てる。
白いミルクが黒い液体に混ざり合い、渦を巻いていくのを、二人は黙って見つめていた。
越路吹雪の『サン・トワ・マミー』
店内のスピーカーから、劇的な、けれどどこか空虚な越路吹雪の歌声が流れ始めた。
♪二人の恋は 終わったのね 許してさえ くれないあなた
重厚なメロディが、千夜子の胸の奥にある決意を、静かに、しかし冷酷に叩き起こしていく。
千夜子は、アイスコーヒーの結露で濡れた指先を握り締め、息子をまっすぐに見つめた。
「……進。パパと、別れてもいいかな?」
その問いは、親が子に請う許しというよりは、戦友に次なる作戦を告げるような、悲痛な覚悟に満ちていた。
進は、ミルクで白濁した自分のグラスから視線を上げ、母の瞳を見た。
そこには、自分を抱いて夜逃げした時の震えはもうなかった。
進は、わずかに首を縦に振った。
「うん。いいよ」
その一言が、荒川俊郎という「選んでしまった過去」との決別を決定づけた。
五歳の少年が飲み込んだアイスコーヒーは、夏の陽光を撥ね返すほどに冷たく、そして大人の味がした。
【もう1つの裏切りの始まり】
離婚後のある日、千夜子はかつての同僚、鈴木ふさゑの邸宅を訪ねた。
二人は岡谷の工場時代、共に新しい仕事を覚え直した仲だった。
しかし、名古屋で再会した鈴木は、立派な門構えの邸宅に住む「裕福な妻」へと変貌を遂げていた。
だが、その豪奢な家の内側は、冬の諏訪湖よりも冷え切っていることを千夜子は直感した。
裕福な家に生まれながら「女に学問は不要」と進学を断たれた鈴木。
彼女は、親の決めた、愛しもしない男との家庭内別居を、ただ「世間体」という名の鎖で維持していた。
鈴木にとって、千夜子はかつて「自分と似た境遇の友」であったはずだ。
しかし、千夜子が情熱のままに駆け落ちし、愛する人の子を産み、今また自らの意思で離婚して自立しようとする姿を見るにつれ、鈴木の心境は黒く濁り始めていた。
現状を変える勇気のない自分への情けなさが、いつしか千夜子への猛烈な嫉妬と憎悪へと変わっていたことに、千夜子自身はまだ気づいていなかった。
【氷の微笑と「汁かけ飯」】
「進、ママ、郵便局に行ってくるけど、少しだけ待っててね」
千夜子が席を外したその刹那、鈴木は静かに「仕返し」を開始した。千夜子が最も愛する存在――進に、一生消えない心の傷を刻む。それが彼女の選んだ残酷な復讐だった。
鈴木は、小さな進をじっと見つめ、氷のような微笑を浮かべた。
「……進君、栴檀は双葉より芳し、という言葉を知ってる?」
「知らない」と進は答えた。
「良い香りがする木なの。芽が出たときから、もう良い香りがするのよ。つまりね、優れた人は子供の時から優れているという意味なの」
進が首を傾げる。彼女は声を低くして続けた。
「でも君は、パパにそっくり。ママには少しも似ていないわね」
そうだな、と進は無邪気に頷いた。
「昔のお殿様が、息子とご飯を食べていたの。汁かけご飯って知ってる?」
「うん」
「あれね、一度ご飯を盛り、一度だけ汁をかけて頂くものなの。でもね、その息子は何度も何度も汁を足したのよ。どういうことか分かる?」
進は黙って聞き入る。
「……先のことが、考えられないの。その殿様は北条氏康といってね、息子は氏政。結局、息子の氏政のときに、その立派な家は潰れてしまったのよ」
鈴木は進の瞳を覗き込み、逃げ場を奪うように言い放った。
「大人になってどうなるかはね、子供の時に分かるの。君はパパに似ている。だから、パパみたいな人生になるのよ」
「パパと同じように?」
「そう。パパと同じように、仕事のできない、ダメな大人になるのよ」
進の小さな胸に、冷たい針が深く刺さった。鈴木の瞳には、千夜子への暗く澱んだ嫉妬が燃えていた。
【絶縁と、千夜子の夢】
郵便局から戻った千夜子は、部屋の空気が凍りついているのを感じた。進の青ざめた顔、震える肩を見て、千夜子は鈴木を問い詰めた。
「鈴木さん、この子に何を言ったの?」
「本当のことを教えてあげただけよ。あんな無能な男の血を引いているんですもの。千夜子さん、あなただけが頑張っても、この子の未来はもう決まっているのよ」
千夜子の胸の奥で、何かが激しく弾けた。怒りとともに、千夜子はその場で絶縁を突きつけた。
「……二度と、私たちの前に現れないで」
進を連れて飛び出した夕暮れの道。
千夜子は進の手を、痛いほど強く握りしめた。千夜子だけは、あの病室で見た「大勢の前で熱弁を振るう息子」の夢を、一瞬たりとも捨てていなかった。
「進、あんな人の言うことを信じちゃダメ。あなたは、あなたなのよ」
しかし、五歳の進の心に刻まれた「栴檀」と「北条氏政」の呪いは、容易には消えなかった。
(パパみたいに、家を潰す人間になるのか……?)
その恐怖は、後年、彼を「父とは違う自分」へと狂おしいほどに駆り立てる、消えない火種となった。
鈴木ふさゑが放った呪詛は、皮肉にも進に「自らの運命を論理的に書き換える」という、強靭な意志を植え付けることになったのである。




