第5章 兄弟の明暗、不景気の足音
【堅実な弟と、見えない「砂上の楼閣」】
千夜子はついに決意し、信州の実家へ受話器を向けた。
数年ぶりの娘の声に、母・智代は「……生きていたのかい」と震える声で漏らし、妹の千冬は受話器を奪うようにして泣きじゃくった。
岡崎の湿った風の中で、千夜子の心にようやく一本の細い糸が、故郷へと繋ぎ直された瞬間だった。
時を同じくして、俊郎もまた、自らの血脈へと連絡を取った。
相手は、東京の家を絶縁された自分とは対照的に、富山で大手自動車メーカーの部長代理にまで登り詰めていた弟・慶彦だった。
【窮屈な再会】
数日後、慶彦は富山から岡崎のアパートへと、自らハンドルを握ってやってきた。
現れたのは、俊郎よりも体格が良く、その瞳に「組織を背負う者」の鋭い光を宿した男だった。
驚いたのは、彼が乗ってきた車だった。
大手企業の幹部候補、相当な年収があるはずの慶彦が乗ってきたのは、高級車とは程遠い、驚くほど実用本位で燃費の良さだけが自慢のような、小回りの利く大衆車だった。
俊郎、千夜子、そして進の三人が乗り込むと、車内は肩が触れ合うほどに窮屈だった。
俊郎は、かつて代々木の家で「贅沢」を呼吸するように育った癖が抜けず、思わず口を突いた。
「慶彦、お前、それだけ稼いでいるんだから、もっといい車に乗ったらどうなんだ。この窮屈さは荒川の人間には似合わないよ」
慶彦はバックミラー越しに兄を冷ややかに一瞥し、短く吐き捨てた。
「……そんなこと言ってるから、兄貴は親父から愛想を尽かされるんだ」
「なんだと? 事実、稼いでるんだろ。見栄も必要じゃないか」
「兄貴、あんたは大学の経済学部で何を学んできたんだ」
慶彦の声は低く、車内に充満する湿り気を切り裂いた。
「今、日本中が浮かれているが、こんな好景気が長く続くわけがない。……中東の情勢が怖いんだよ。今、日本は形の上ではイスラエルを応援していることになっているが、それが火種になる」
【予言の孤独】
俊郎は「中東がどうした」と鼻で笑い、千夜子は夫の横顔を不安げに見つめるだけだった。
幼い進も、叔父の口から出た「イスラエル」という異国の言葉が、自分たちの空腹やアパートの家賃とどう繋がるのか、さっぱり分からなかった。
「石油が止まれば、この国の経済なんて一瞬で干上がる。俺たちは砂の上に楼閣を建てているようなもんだ。今のうちに備えない奴は、真っ先に振るい落とされる」
慶彦は、兄の「ノイローゼ」という言い訳も、千夜子の「献身」という美談も、すべてを経済という冷徹なモノサシで測っているようだった。
車が岡崎の街を走る中、道端には依然として派手な広告が踊り、人々は豊かさを謳歌している。
だが、慶彦の言葉は、数年後に日本を襲う「オイルショック」という未曾有の災厄を正確に射抜いていた。
理屈っぽく、物事を疑う性質の進は、叔父のその「誰も信じていないが、自分だけは見えている」という確信に満ちた横顔を、じっと見つめていた。
「……中東って、どこ?」
進の小さな問いに、慶彦は答えなかった。
ただ、燃費の良い小さな車は、狂乱の時代の隙間を縫うように、静かに、そして確実に目的地へと向かっていた。
【傘のない街、塗り替えられた正義】
1973年秋。第四次中東戦争の勃発をきっかけに、世界を揺るがした「オイルショック」が日本を根底から塗り替えた。
戦後、右肩上がりの成長を信じて疑わなかった人々の前に、突如として「有限」という名の壁が立ちはだかった。
ネオンサインは消え、テレビの深夜放送は休止され、街は急速に色を失い、暗くなった。
かつて友人のヒロシがはしゃいでいた「排気ガスを出すかっこいい車」は、一夜にして「環境と家計を破壊する悪」へと成り下がった。
世論は手のひらを返し、叔父の慶彦が乗っていたような、小さく燃費の良い車こそが「正義」となったのである。
慶彦が予言した通り、砂上の楼閣は崩れ始めていた。
挿入曲:井上陽水『傘がない』
凍てつくような岡崎の街角から、井上陽水の低く、重い歌声が流れてくる。
♪都会では自殺する若者が増えている
♪今朝来た新聞の片隅に書いてある
♪だけども問題は今日の雨 傘がない
テレビの中では世界の危機が叫ばれ、正義の定義が書き換えられている。
しかし、千夜子にとっての最大の問題は、世界情勢ではなく「今日、食べるものがない」という切実な雨だった。
【塩とそうめんの記憶】
狂乱物価の波は、崖っぷちの生活を送る千夜子を容赦なく直撃した。
スーパーの棚からはトイレットペーパーや洗剤が消え、あらゆるモノの値段が跳ね上がった。
パートの給料は据え置かれたまま、パン一つの値段が明日はどうなるか分からない。
その年の夏は、塩を振りかけただけのそうめんで食い繋いだ。
冬になると、豆腐屋から分けてもらった安価なオカラと、一袋数円のモヤシを煮込む日々が続いた。
俊郎は相変わらず「諏訪湖の氷」の話をしては、現実から目を逸らしている。
進は、ひもじさに耐えながら、何も言わずにノートに文字を書き続けていた。
「……もう、限界かもしれない」
三十歳を目前に控え、千夜子は鏡の中の自分を見つめた。
信州の実家を飛び出した頃の情熱は、日々の献身と困窮によって磨り減り、残されたのは「母」という役割の重責だけだった。
傘を持たず、激しい時代の雨に打たれながら、彼女はそれでも進の手を離さなかった。
正義が入れ替わり、価値観が崩壊する世界の中で、千夜子にとっての唯一の真理は、自分の腕の中にいる、この「理屈っぽい小さな命」を守り抜くことだけだった。




