第4章 三年の空白と、五百円の慈悲
【三年の空白】
進が三歳になった頃、千夜子は彼を保育園に預けることを決意した。
日々の困窮の中、役所の窓口で「世帯所得が低ければ費用は抑えられる」と聞いたことは、荒波の中で掴んだ浮木のような安心感だった。
しかし、その手前には、自らの「過去」と対峙しなければならない高い壁が立ちはだかっていた。
俊郎との駆け落ち、逃避行、そして凄惨な難産の記憶。
それらに追われるうちに、千夜子は進の「出生届」を提出せぬまま、三年の月日を流してしまっていたのだ。
【凍りついた「おめでとう」】
千夜子は意を決して岡崎市役所の重い扉を叩いた。「子供が生まれましたので、届け出に来ました」
受付の若い職員は、公務員らしい満面の笑みを浮かべた。
「それは、おめでとうございます! お生まれになったのはいつですか?」
千夜子は、隣に立つ小さな男の子の頭に手を置き、静かに答えた。
「……三年前です。この子です」
その瞬間、職員の頬の筋肉がピクリとこわばった。
「……少々、お待ちください」
事務的な笑顔は消え、職員は奥へと消えた。
しばらくして現れたのは、眼鏡の奥に鋭い眼光を湛えた年配の男性職員だった。
進は「ここで待っていようね」と促され、別室の小さな相談コーナーへと案内された。
そこには色褪せた絵本が数冊置かれていた。
進が何気なく手に取った絵本の向こう側、大きなガラス窓の向こうに、母の姿が見えた。
先ほどの年配の職員が、何か怖い顔をして母に問い詰めている。
母は、かつて父・治郎蔵にそうしていたように、何度も、何度も深く頭を下げていた。
【法の番人の眼差し】
相談室の中では、張り詰めた空気が流れていた。 「……三年間、一度も届けを出さなかった。その経緯を詳しくお聞きしたい」
千夜子は隠し立てをせず、すべてを話した。
俊郎との不倫に近い結末、親族との絶縁、そして岡崎での綱渡りのような生活。
三年前の嵐の夜、傷だらけで生まれた進を抱きしめるだけで精一杯だったこと。
最初は事務的な不備を咎めるような雰囲気だった職員も、千夜子の澱みのない言葉を聞くうちに、その表情を和らげていった。
「なるほど、そうだったのですか……。法律は法律ですが、ご事情は理解しました」
職員は手元の書類を整理しながら、声を低めた。 「出生届の懈怠には『過料』という罰金のようなものが発生します。本来はそれなりの金額になりますが、私が事情を汲んで、できる限り配慮できるよう手を打ってみましょう」
「……よろしくお願いいたします」
千夜子は、再び深く頭を下げた。
窓の向こうで、進が不思議そうにこちらを見つめていた。
【届いた「五百円」の重み】
数日後、ポストに「重要」と朱書きされた一通の封書が届いた。
「秩序罰(過料)」
恐る恐る開封した千夜子の目に飛び込んできたのは、意外な数字だった。
【過料:五百円】
それは、法律という冷徹なシステムが、千夜子の苦難に歩み寄ってくれた「慈悲の証」のように見えた。
九千円の給料袋で絶望していた彼女にとって、この五百円という金額は、行政が自分たちの存在を、そして「進」という命をようやく認めてくれた、最初の授業料のようにも思えた。
「進、これでようやく、あなたは『この世界の人』になれたのよ」
千夜子は、過料の通知を胸に抱き、静かに涙を流した。
進は何も知らず、保育園での新しい生活に想いを馳せていた。
【理屈の檻と、消えない問い】
1972年。保育園に通う進は、早くも周囲の子供たち、そして大人たちの常識との決定的な「ズレ」を露呈させていた。
彼は、ただ遊ぶことや楽しむことができない子供だった。
物事の裏側にある仕組み、あるいは言葉の定義を突き詰めずにはいられない。
その幼い脳細胞は、常に「なぜ」という飢餓感に突き動かされていた。
ある日、千夜子が買い物に行こうと進の手を引いて商店街へ向かった時のことだ。
進は不意に足を止め、街灯の隅に張られたクモの巣を指差した。
「……ママ。商店街って、クモの巣みたいだね」
千夜子が不思議そうに理由を尋ねると、五歳の進は真剣な眼差しでこう答えた。
「商店街は、ママの財布の中身を食べちゃうんでしょ? クモの巣みたいに、通りかかった人を捕まえて、中身を空っぽにするんだ」
千夜子は、息子のあまりに即物的な発想に苦笑しながら、優しく諭した。
「商店街はクモの巣じゃないわ。クモの巣に捕まったら食べられて終わりだけど、商店街はお金を払う代わりに、美味しい食べ物や便利なものをくれるのよ。それは『交換』っていうの」
進はしばらく沈黙し、頭の中でその理論を組み立てた。
しかし、納得したような顔をしながらも、最後にボソリと付け加えた。
「でも、クモの巣みたいに、できるだけいっぱい食べちゃいたいと思っているんでしょ。捕まえたいんでしょ」
その疑い深い視線は、もはや純真な子供のものではなかった。
【輝かないスーパーカー】
世は空前のスーパーカーブームに沸いていた。
少年たちの話題はランボルギーニ・カウンタックやフェラーリ、ポルシェといった異国の名車一色だった。
友人のヒロシが、色鮮やかなメンコを広げながら興奮気味に語る。
「見てよ進! カウンタックだよ。排気ガスをいっぱい出して走るんだ、かっこいいだろ!」
しかし、進は冷ややかな目でその絵柄を見つめるだけだった。
「……なんで、煙がいっぱい出ることがかっこいいの?」
「えっ、だって、すごいスピードが出る証拠だもん!」
「でもさ」と、進の理屈が始まる。
「あんな車、この街の細い道で走れるの? 制限速度があるのに、スピードを出したら捕まっちゃうよ」 「スピードを……出せる場所があるんだよ!」
「なら、街は走れないね。狭いし、煙はいっぱい出るし、人は二人しか乗れない。何が良いのかわかんない。つまんない車」
【孤立する小さな「正論」】
ヒロシは顔を赤くして黙り込み、やがて「お前とは遊ばない!」と言い放って走り去った。
「事実」を積み上げ、矛盾を突く。
進にとってそれは世界を正しく認識するための誠実な行為だったが、同年代の子供たちにとって、それは「ごっこ遊び」という名の夢を壊す無粋な攻撃でしかなかった。
「うるさい奴」
「理屈ばっかりで可愛くない」
そんな評価とともに、進の周囲からは一人、また一人と友人が消えていった。
千夜子は、一人で図鑑を眺め、アリの行列の法則性をノートにメモしている息子の背中を見つめ、複雑な思いを抱いていた。
かつて母・智代が「文字の世界」に逃げ、父・治郎蔵が「実利」を求めて泥を這ったように、この子は「理屈」という名の武器を研ぐことで、この息苦しい現実から自分を守ろうとしているのではないか。
その「理屈っぽさ」こそが、後の世で、迷える受験生たちに法的思考を説く最強の武器になるのだ。
しかし、今はまだ、それは自分自身を閉じ込める孤独な檻でしかなかった。




