第3章 俊郎の過去
【贅沢の残り香と、代々木の平手打ち】
九千円しか残っていない給料袋を前に、俊郎は朦朧とした意識の中で、遠い日の記憶に逃避していた。
昭和十年代、東京・代々木の荒川邸。 そこには、岡崎の湿った風も、安酒の匂いもなかった。あるのは、磨き上げられた廊下の輝きと、何不自由ない少年の日々だった。
当時、子供たちの憧れだったドイツ製のブリキの自動車や、精巧な鉄道模型。俊郎はそれらを当たり前のように買い与えられ、近所の子供たちからは羨望の眼差しを向けられていた。
小遣いも、並の家庭の大人以上に与えられていたはずだった。
しかし、俊郎の欲望には底がなかった。あればあるだけ使い果たし、月末にはいつも財布が空になった。
「兄貴はもっと考えて使わないと、いつか困るよ」
年下の弟慶彦からたしなめられるたび、俊郎は「お前に何がわかる」と鼻で笑っていた。
彼にとって、金は湧き水のように無限に溢れてくるものだと信じて疑わなかったのである。
【魔が差した午後】
昭和十三年のある日。小遣いを使い果たし、どうしても欲しい玩具を見つけた俊郎は、禁断の領域に手をかけた。
母・しずが居間に脱ぎ捨てていた上着。
そのポケットに、膨らんだ財布が入っているのを見つけたのだ。
俊郎は鼓動を抑えながら、抜き足差し足で近づき、財布を抜き取った。
中には、当時としては大金である五十銭札が三枚。
(全部盗れば、すぐにバレる。一枚だけなら……)
俊郎は一枚だけを素早く抜き取り、何食わぬ顔で財布を元に戻した。
【盗んだ甘露】
五十銭を握りしめた俊郎は、そのまま代々木の街へ飛び出した。
向かったのは、格式高い高級菓子店。
彼はそこで、店で一番高い饅頭の詰め合わせを、贅沢にも二箱買い込んだ。
公園のベンチに座り、箱を開ける。
薄い皮に包まれた、艶やかなこし餡。その上品な甘さは、罪悪感を麻痺させるに十分な「魔力」を持っていた。
(俺は荒川家の長男だ。これくらい、どうってことはない)
俊郎は、頬を膨らませて饅頭を口に運び、甘露に浸った。
二箱もの饅頭を一人で平らげる全能感。
それは、労働の苦しみを知らぬ少年が手にした、あまりに脆く虚しい「自由」の味だった。
【ガッシリとした母の裁き】
満足感に浸り、家路についた俊郎を待っていたのは、暗い玄関先で仁王立ちする母・しずの姿だった。
しずは当時としては大柄で、ガッシリとした骨格を持つ、芯の強い女性だった。
俊郎が足を踏み入れた瞬間、鋭い風の音とともに、右頬に凄まじい衝撃が走った。
「――ッ!」
あまりの威力に、俊郎は床に吹っ飛んだ。
火の出るような痛みと、耳鳴り。
見上げると、母が氷のような冷徹な眼差しで自分を見下ろしていた。
「……お前が今日やったことについて、正直に、すべて話しなさい」
その声は怒号よりも低く、重かった。
盗んだ五十銭、甘い饅頭、そして自分勝手な理屈。
すべてを見透かされた恐怖に、俊郎はただ震えることしかできなかった。
こっぴどく詰められ、自室に閉じこもって泣く俊郎。
ラジオから、淡谷のり子の「雨のブルース」が流れてきた。
♪雨よ降れ降れ 悩みをながすまで どうせ涙に 濡れつつ 夜ごと 嘆く身は
♪ああ かえり来ぬ心の青空 すすり泣く 夜の雨よ
【焼け跡の栄華】
俊郎の回想は、戦火の記憶へと沈んでいく。
日中戦争が激化するにつれ、代々木の荒川家はさらなる富を築いていった。
父・利蔵が重役を務める会社は、戦地で不可欠な双眼鏡や測距儀など、精緻なレンズを用いた光学機器を独占的に供給していたからだ。
国が焼かれ、血が流れるたびに、俊郎の食卓は豊かになっていった。
やがて太平洋戦争が始まり、東京の空が赤く染まる日がやってきた。
代々木の邸宅も空襲の業火に晒されたが、幸運にも離れが全焼しただけで、本宅は半焼で食い止められた。
焼け野原となった東京で、屋根が残っているというだけで、彼らは依然として特権階級であり続けた。
【空虚な婚姻】
戦後、混乱期をよそに俊郎は名門難関私立大学へと進学し、何不自由ない四年間を謳歌した。
卒業後は父の強力なコネクションを使い、当然のように親会社へ入社する。
結婚もまた、自らの意志ではなかった。
父が用意した見合い相手。
断る決定的な理由もなく、ただ流れに身を任せるようにして、彼は最初の妻と結ばれた。
長男が生まれ、次男が生まれた。
「夫婦というものは、長く一緒にいれば自然と愛情が湧いてくるものよ」
母・しずからはそう教えられたが、俊郎の心は凪いだままだった。
子供たちが泣こうが、妻が隣にいようが、そこには「家族」という実感も熱量も存在しなかった。
彼にとって人生とは、用意された椅子に座り続けるだけの、退屈な儀式の連続に過ぎなかった。
【玄関先の崩壊】
現実は甘くはなかった。
コネで入社したとはいえ、実力主義が浸透し始めた戦後の企業。
俊郎の適応能力の低さは致命的だった。
「荒川さんの息子」という看板があっても、三十を過ぎてようやく班長。
係長への昇進すら見えない俊郎。
期待を裏切られたと感じた妻の態度は、日ごとに刺々しくなっていった。
彼女にとって俊郎は、輝かしい未来を約束してくれるはずの「勝ち馬」ではなく、ただの「無能な男」へと成り下がっていた。
ある朝のことだった。
俊郎はいつものように出勤するため、玄関で靴紐を結んでいた。
指先が震え、なかなか結び目が作れない。もどかしさとプレッシャーが、彼の呼吸を浅くする。
その様子を背後から冷ややかに見つめていた妻が、突然、狂ったような声を上げた。
「……何やってるのよ! そんなことも満足にできないのか!」
罵声とともに、俊郎の視界が真っ暗になった。
妻が台所のゴミ箱を掴み、中身を俊郎の頭からぶちまけたのだ。
生ゴミの悪臭と、冷たい湿り気が頭髪から背中へと伝っていく。
玄関の床に散らばる屑。
俊郎は靴紐を握ったまま、石のように固まった。
怒りよりも先に、深い諦念と、どこか他人事のような虚無感が彼を支配した。
(ああ、俺はここには居られない)
この「ゴミ箱の洗礼」が、彼を岡谷への単身赴任、そして千夜子との破滅的な出会いへと突き動かす、決定的な一打となったのである。




