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第3章 虚飾の表層

【ブラウン管越しの虚飾】


茶間に据えられたテレビ。

その青白い光に照らされながら、木島は今日も画面を凝視していた。


画面の中では、イラン・イスラム革命の猛火が吹き荒れている。黒い法衣を纏った指導者ホメイニ師が、拳を突き出す民衆を熱狂させていた。木島はそれを見て、さも世界を理解したような傲慢な表情で、深く頷いてみせる。


「時代が変わるぞ、千夜子。これからはこういう強いリーダーの時代だ」


木島の言葉を聞きながら、千夜子は台所で手を止めた。彼の言葉は、テレビのキャスターが数分前に口にしたフレーズの、不器用な焼き直しに過ぎない。

その傍らで、床に図鑑や書物を広げて読み耽っていた進が、ふと顔を上げた。その瞳には、木島が誇示する知識が、いかに空虚で砂上の楼閣であるかを見透かすような冷ややかさがあった。


【歴史の深層、情報の表層】


木島は知らない。

なぜ、かつて「白い革命」と称して近代化を急いだパフレビー国王が、あれほど無残に王座を追われなければならなかったのか。

西洋化という名の暴力が、何世代にもわたる敬虔な民衆の怒りにどう火をつけたのか。


そして、千年以上も続くシーア派とスンニ派の、血塗られた対立の根源を。


テレビが映し出すのは、常に「今、この瞬間」の刺激的な断片でしかない。

その背後に流れる、地層のように積み重なった歴史の重奏を、木島は読み解く術を持たなかった。

彼は、ただ流れてくる映像を飲み込み、それを自分の血肉であるかのように勘違いしているだけなのだ。


進は、そんな木島の背中を黙って見つめていた。

進の手元にある本には、木島が一生かかっても辿り着けないであろう「問い」と「答え」が、緻密な文字で記されている。


【泥沼の予感】


やがて時代は、アメリカ大使館人質事件から、イラン・イラク戦争という泥沼の戦乱へと突き進んでいった。

画面の中では、サダム・フセインが勇ましく兵士を鼓舞している。


「こいつもやり手だな。日本もこういう男が必要だ」

木島は、戦火の背景にある資源の利権も、国境線の悲劇も顧みず、ただ「強そうな映像」に酔いしれていた。


千夜子は、テレビの光に縁取られた木島の横顔と、影の中で黙々と本を捲る進の姿を交互に見た。

一人は、情報の波に浮き沈みしながら、実体のない優越感に浸っている。

もう一人は、静かな城塞を築き、世界の真理を独りで解明しようとしている。


「ねえ、進。明日は図書館へ行く日だったわね」

千夜子が声をかけると、進は初めて小さな微笑を見せた。

「うん。中東の歴史の、もっと詳しい本を探したいんだ」


木島がテレビに向かって放つ、独りよがりの解説。

それが進の築き上げた知の城壁に届くことは、決してなかった。

千夜子は、この「偽りの家」の中で、進だけが持つ本物の輝きを、何としても守り抜かなければならないと、改めて強く心に誓った。


【迷い道の沈黙】


ある日の夕暮れ。木島は現場仕事の疲れからか、茶間の座椅子で深く首を垂れ、ウトウトと眠りに落ちていた。

時刻は午後七時半を過ぎた頃。彼が「知性の鎧」として熱心に見ていたはずのニュース番組はとうに終わり、画面には華やかな歌番組が映し出されていた。


♪現在 過去 未来 あの人に逢ったなら 私はいつまでも 待ってると伝えて♪

♪ひとつ曲がり角 ひとつ間違えて 迷い道くねくね♪


渡辺真知子の伸びやかな歌声と、弾けるようなピアノのリズム。

千夜子は台所でその軽快なメロディを聞きながら、ふと、自分たちの人生もまた、どこかの曲がり角で道を間違えたのではないかという、ぼんやりとした不安に襲われていた。


ふと目を覚ました木島は、自分が武装のために見ていたニュースが終わり、流行歌が流れていることに一瞬、狼狽したようだった。

その困惑を強引に打ち消すように、彼は再び、サダム・フセインについて聞かれもしない解説を、傲慢な口調で語り始めた。


「いいか進、フセインっていうのはな、中東をまとめる器を持った男なんだ。ニュースでも言っていたが、ああいう強い男がいないと、あの辺りは収まらんのだ」


木島は、自分の言葉がテレビの受け売りであることを隠すように、さらに声を荒らげて知識を誇示しようとした。


【無垢なる一矢】


その時だった。 床に本を広げていた進が、不意に顔を上げ、無邪気かつ残酷な問いを木島に投げつけた。


「ねえ、お父さん。サダム・フセインとホメイニ師が、どうしてあんなに仲が悪いか知ってる? シーア派って何? スンニ派とどう違うの?」


一瞬にして、茶間の空気が凍りついた。

渡辺真知子の歌声だけが空虚に響き、木島は言葉を失ったまま、口を半開きにして固まっていた。


「それは……その、宗教の違いだ。とにかく、仲が悪いんだよ」


木島の絞り出した答えは、あまりに稚拙で、八歳の子供を納得させるにはほど遠いものだった。

自分を「無能な父・俊郎と同じ種」だと断じた大人たちの理不尽な論理に抗うため、ひたすら知識の城を築いてきた進。

彼にとって、それは純粋な知識の確認であると同時に、自らの存在証明を懸けた、鋭利な一矢でもあった。


木島は、進のまっすぐな瞳を直視することができず、忌々しそうに視線をテレビへと戻した。


【鏡の破綻】


千夜子は、その様子を息を潜めて見守るしかなかった。

教養という名の武器を持たぬ木島が、知性への渇望に燃える進を制圧することなど、もはや不可能なのだ。


木島はニュースという「点」の情報を集めていたが、進は歴史という「線」の文脈を理解しようとしていた。

二人の間にある断絶は、もはや会話という橋で渡れる距離ではなかった。


「お父さんは、さっきのニュースでそこまでは言っていなかったから、知らないだけだよ。……進、続きは図書館で調べましょうね」


千夜子が助け舟を出すように言うと、木島はさらに顔を真っ赤にして、逃げるように立ち上がった。


「あいつは生意気だ。子供のくせに理屈ばかり並べやがって!」


吐き捨てるように言い残して部屋を出て行く木島の背中を、進は悲しむでもなく、ただ冷徹に観察していた。

千夜子は、激しく鼓動する胸を押さえた。かつて俊郎と別れたとき、進が見せたあの「大人びた頷き」を思い出す。


この家もまた、迷い道の途中にあった。

千夜子は、茶間で一人、再び本の世界へ沈んでいく進の小さな背中を見つめながら、これから訪れるであろうさらなる崩壊の予感に、静かに身を震わせた。


【幻影の終焉と、魂の転校】


千夜子と木島の再婚は、救いをもたらさぬ失策に終わった。

居間の王座に居座る木島は、テレビの主導権という卑小な権力を死守することに執着した。

進は世の中の仕組みを知るためにニュースに興味を持っていたが、それはテレビが垂れ流す断片的な情報ではなく、本を読んでじっくりと深掘りしたいという切実な知識欲だった。


進にとって、家は安らぎの場であるべきだった。

『タイムボカンシリーズ』や『お笑いマンガ道場』を観て、子供らしく笑い転げたかったのだ。

なぜなら、ニュース番組の多くが視聴率狙いの表面的な報道に終始していることを、少年の鋭い観察眼はすでに見抜いていたからだ。

「ニュース番組なんか見ても、深い内容は分からない」

進はそう断じていた。しかし、木島は決して譲らなかった。

「悔しければ自分でテレビを買え」

木島が進に向けたその言葉は、大人が子供にぶつけるにはあまりに狭量な悪意に満ちていた。


【崩れゆく親方の誇り】


腕の良い左官であったはずの木島だが、その苛烈な性格と傲慢さが人を遠ざけていった。

自立した親方の座を追われ、いつしか雇われの身へと転落した木島の背中は、かつての威勢を失っていた。

収入は増えるどころか減る一方となり、日々の糧さえ危うくなったため、千夜子は再び身を削って働きに出ることになった。


ある夜、進が静かに木島に尋ねた。

「ねえ、お父さん。コマーシャルって、なんで流れてるか知ってる?」

木島はテレビから目を離さず、吐き捨てるように答えた。

「そりゃあ、宣伝のためさ。当たり前だろう」

進は淡々と続けた。

「そうなんだけど……本当は、番組をスポンサーの好きなようにするためだよ。会社は儲けたいからコマーシャルを流す。でも、それだけだったら誰も見てくれない。だから番組があるんだ。つまり、コマーシャルを出してる会社にとって都合の良い番組が作られてるんだよ」


【粉砕された沈黙】


「うるさいッ!」


木島がキレた。

激昂した彼は、目の前にあったビール瓶を掴み、テーブルに叩きつけた。

ガシャーンと凄まじい音が響き、緑色の破片が飛び散った。

あまりの衝撃に、叩きつけた本人である木島自身が驚き、その場に凍りついた。

進は動かず、ただ割れた瓶の先を冷徹に見つめていた。

重苦しく、長い沈黙が部屋を支配した。


「……もう、無理だ」


進の細い声が、千夜子の中にある最後の防波堤を崩した。

木島は我に返ったように千夜子の前に崩れ落ち、土下座をした。

「悪かった、もう一度やり直させてくれ。必ず家を建てる。お前たちを幸せにするから」

涙ながらに語る「家を建てる夢」。けれど、冷え切った千夜子の決意が再び燃えることはなかった。


俊郎という蜃気楼を追い、木島という泥船に乗り込んだ。

千夜子は、散ったガラスの破片を拾いながら、今度こそ自分の足で荒波へ漕ぎ出す覚悟を決めた。

横に立つ進の瞳には、もう誰にも頼らないという強い光が宿っていた。

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