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空白の宛名と、破滅へ導く道標

SideA

私がルミエの前に敷いたのは、最悪のレッドカーペットだった。


「全軍に告ぐ。勇者の行く手を阻め。我が城へ至るまでのすべての道を、貴様らの血と死骸で飾るのだ」


魔王城の謁見の間に、私の冷酷な声が響き渡る。

 ひれ伏す上位魔族たちは、私の放つ圧倒的な瘴気と狂気に当てられ、ただガタガタと震えながら「御意」とだけ答えて戦場へと散っていった。


彼らには、勇者を殺すことなど絶対に不可能なように命令を与えてある。

 彼らの役割は、ルミエの『障害』になることではない。彼女が私に対する憎悪と殺意を途切れさせないための、『燃料』として消費されることだ。

 私のために死んでいく魔族たちには何の感情も湧かない。私の心にあるのは、ただ一人、猛烈なスピードでこの城へ向かっている勇者への狂おしいまでの執着だけだった。


「……ルミエ。私の可愛い、ルミエ」


誰もいなくなった玉座の間で、私は再び『水鏡』に魔力を流し込んだ。

 水面が波打ち、王都の軍隊を置き去りにして、たった一人で荒野を進むルミエの姿が映し出される。


夜の闇の中、ルミエは小さな野営の火を焚いていた。

 火の揺らめきが彼女の美しい横顔を照らしているが、その表情には、もはや『人間らしさ』の欠片も残っていない。

 温かいスープを飲むでもなく、毛布にくるまるでもなく、ただ岩の上に姿勢良く座り、瞬きすら忘れたかのように冷たい目で炎を見つめている。

 聖剣が彼女の疲労も、孤独も、すべてを奪い去ってしまったのだ。


「……ん?」


ふと、水鏡の中のルミエが動いた。

 彼女は懐から、一枚の羊皮紙とインクの入った小瓶、そして羽ペンを取り出した。


(手紙……? 誰に?)


私は水鏡に身を乗り出し、視界を魔法で拡大した。

 ルミエは羊皮紙を膝の上に置き、流れるような手つきでペンを走らせていく。


その筆跡を見て、私は胸を鋭く抉られたような痛みを覚えた。

 昔、村で一緒に文字の書き方を練習した時の、あの少し不格好で丸っこいルミエの字ではなかった。王都の書記官が書くような、寸分の狂いもない、機械的で冷たい文字。

 こんなところまで、『完璧な勇者』に書き換えられてしまっている。


『未来の私へ』


ルミエが書き出した最初の一行を読み取り、私は息を呑んだ。

 遺書だ。

 誰かに宛てた手紙ではない。自分がもうすぐ『完全に自分ではなくなる』ことを悟ったルミエが、最後に残るであろう空っぽの肉体に向けて書き残す、道標。


『私はきっと、もうすぐすべての過去を忘れてしまう。自分がどこで生まれたのか、何が好きだったのか。そして、誰のためにこの剣を振るっているのかさえも』


ルミエの筆先は、一切の躊躇なく進む。

 自分の記憶が消え去るという恐怖すら、すでに聖剣に漂白されているのだ。彼女はただ、事務的な引き継ぎ書を作るように、淡々と事実を書き連ねていく。


『でも、これだけは忘れないで。どんなに心が白くなっても、この目的だけは手放してはいけない』


ルミエはペンを一度止め、左手の薬指に嵌まった『シロツメクサの指輪』に触れた。

 その瞬間だけ、彼女の氷のような瞳の奥に、ほんのわずかな「熱」が宿ったように見えた。


『この指輪を、あるべき場所へ返さなきゃ』


――あ、あぁ……。


『魔王を殺せば、きっと指輪の持ち主が待つ場所へ帰れるはずだから』


その一文を目にした瞬間。

 私の視界は、どっと溢れ出した涙で完全に歪んだ。


「違う……っ、違うよ、ルミエ……!」


私は水鏡にすがりつき、声にならない悲鳴を上げた。

 ルミエは致命的な勘違いをしている。

 彼女の頭の中では、「魔王=愛する人の声を奪った憎き仇」であり、「魔王を倒した先にある平和な世界=指輪の持ち主(愛する人)が待つ場所」へとすり替わっているのだ。


魔王を殺せば、約束の相手に会える。

 その狂った希望だけが、空っぽになった彼女の体を動かす唯一の原動力になっている。


でも、違う。

 君が帰るべき場所は、君が殺そうとしている私なんだ。

 君が魔王の首を刎ねた瞬間、君が探している「指輪の持ち主」はこの世界から永遠に消滅する。


『私の世界のすべてだった、あの笑顔の人のために。私は迷わず、魔王を殺す』


ルミエは最後にそう書き記すと、羊皮紙を丁寧に折りたたみ、指輪と同じように胸の奥へとしまい込んだ。

 そこにはもう、アルティナという名前はどこにも書かれていなかった。宛名すら空白の遺書を抱いて、彼女はただ虚無に向かって進み続ける。


「ああ……あははっ、あはははは……ッ!」


私は、自分の顔を覆って狂ったように笑った。

 あまりにも滑稽で、あまりにも残酷なすれ違い。


私が彼女のために命を投げ出せば投げ出すほど。

 彼女が私を愛してくれればくれるほど。

 二人は絶対に交わらない破滅へと、猛スピードで向かっていく。


「わかったよ、ルミエ。……君が望むなら、私が君を『終わりの場所』まで導いてあげる」


私が死ぬことでしか、君のその狂った巡礼は終わらない。

 ならば、せめて私が、君の剣に貫かれるその瞬間まで、完璧な悪役を演じきろう。

 君の心に「魔王を殺した」という達成感を与え、空っぽの君が、永遠に『存在しない誰か』を探し続けられるように。


「おいで、私の純真な勇者。君が返すべき指輪の片割れは……ここにあるよ」


私は玉座に深く腰掛け、自分の左手にあるシロツメクサの指輪に、そっと血のにじむような口づけを落とした。

 もうすぐ、君が私を殺しに来る。

 それが、私に残された唯一の、そして最期の『逢瀬』なのだ。

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