理由なき涙と、白銀の虚像
SideB
黒い炎が、夜空を不気味に焦がしていた。
私たちが辿り着いた時、王国最前線の砦は、すでに半分以上が崩落していた。
石造りの城壁は飴細工のように溶け落ち、大地には魔王の放った瘴気が色濃く立ち込めている。
生き残った兵士たちは、血まみれの体を寄せ合いながら、絶望に満ちた呻き声を上げていた。
「ルミエ様! 危険です、瘴気が濃すぎます!」
「医療班を早く! 瓦礫の下にもまだ人が……!」
護衛の騎士たちが慌ただしく駆け回る中、私はただ一人、静かな足取りで燃え盛る砦の中央へと歩を進めた。
熱気も、血の匂いも、今の私には何の感情も引き起こさない。
足元で「助けてくれ」と手を伸ばす瀕死の兵士を見ても、私の心は湖面のように凪いだままだった。哀れみも、悲しみもない。ただ『障害物が落ちている』という事実だけを脳が処理し、その手を無表情に避けて歩き続ける。
広場の中央には、魔王が残した巨大な爪痕が大地を抉っていた。
そこには、ご丁寧に魔族の言語でメッセージが刻まれている。
『遅いぞ、勇者。我を殺したくば、急いでここまで這い上がってこい』
「……挑発のつもりかしら」
私はその文字を見下ろし、冷たく呟いた。
怒りすら湧かない。ただ、目の前に提示された『魔王の城へ向かえ』という明確な道標だけが、私の頭の中にインプットされていく。
ふと、視界の端で何かが揺れた。
瓦礫の下敷きになった荷馬車から、小さな布切れがはみ出している。それは、村の女の子が着ていたような、見覚えのある柄のワンピースだった。
――ズキリ。
その瞬間、私の左手の薬指が、焼けるように熱くなった。
「……?」
私は自分の左手を見下ろした。
そこには、少し枯れかけた『シロツメクサの指輪』が嵌まっている。
この指輪を見るたびに、私は「何か」を思い出さなければならない気がするのだ。
何か、とても大切なもの。温かくて、優しくて、でも失ってしまったもの。
魔王は言った。
私の大切な人を食い殺し、その声を奪ったと。
だから私は、仇を討たなければならない。この指輪の持ち主のために。
「……指輪の、持ち主……」
私はぽつりと呟き、目を閉じた。
その顔を思い浮かべようとする。
しかし、脳裏に広がるのは一面の真っ白な霧だけだった。
声も、背丈も、髪の色も、そして名前すらも。
いくら記憶の糸をたぐり寄せても、指の隙間からサラサラとこぼれ落ちてしまう。
ポタ、リ。
手の甲に、温かい水滴が落ちた。
目を開けると、自分の視界がぐにゃりと歪んでいることに気がついた。
水滴は次から次へと溢れ出し、頬を伝って顎から滴り落ちる。
「……変ね」
私は瞬きをして、指先で頬を拭った。
「水が、止まらないわ」
悲しくない。
寂しくもない。
私の心は完璧に空っぽで、何の感情も揺れ動いていないはずなのに、なぜか両目からはボロボロと涙が溢れ続けていた。
これは何かの異常だ。
煙が目に沁みたのだろうか。それとも、魔王の瘴気が涙腺に作用する毒を含んでいるのか。
私は首を傾げながら、無表情のまま何度も何度も涙を拭い去った。
『……迷うな。我に身を委ねよ』
腰に帯びた『聖剣』が、微かな振動とともに私の脳内へ囁きかけてくる。
その冷たい光が私の体を包み込んだ瞬間、ピタリと涙が止まった。
頭の中に立ち込めていた霧が、強制的に吹き飛ばされる。
思い出せないことへの微かな焦燥感すら、聖剣が綺麗に漂白してくれた。
「……そうね。過去の記憶なんて、不要なノイズだわ」
私は深く息を吐き、冷え切った声で呟いた。
名前なんてどうでもいい。
どんな顔だったか、どんな約束をしたかなんて、魔王を殺すための剣筋には何の影響も与えない。
私の中に残っているのは、ただ『魔王を殺さなければならない』という、プログラムされたような目的意識だけだ。
「ル、ルミエ様……!」
背後から、息を切らした騎士団長が駆け寄ってきた。
彼は血だらけの砦を見渡し、絶望に顔を歪めている。
「ひどい有様です。魔王の力は底知れない。我々の足並みでは、軍の再編に数日はかかります。ルミエ様、一旦王都へ退避を……」
「いいえ」
私は彼を一瞥することなく、短く言い放った。
「退避は不要です。あなたたちは遅すぎる」
「え……?」
「あなたたちの歩調に合わせていては、魔王の元へ辿り着くのに時間がかかりすぎるわ。私が一人で行きます」
騎士団長は息を呑み、信じられないものを見るように私を見た。
「ル、ルミエ様、お一人で!? そんな、いくら勇者様でも無茶です! 道中には数え切れないほどの魔族が……!」
「斬り捨てるだけです。何も問題はないわ」
私は淡々と答え、歩き出した。
彼らの怪我を気遣う言葉も、労いの言葉も、もはや私の口からは出てこなかった。
私はただの「勇者」だ。魔王を殺すためだけの存在。
この無駄な人間たちのお守りをして、歩みを止める理由などどこにもない。
「ルミエ様……ああっ、なんという神々しいお姿……!」
背後で騎士たちが、恐怖と畏敬の入り混じった声を上げ、その場に平伏していくのが気配で分かった。
彼らには私が、すべてを犠牲にして世界を救おうとする『完璧で純真な光』に見えているのだろう。
私は振り返らなかった。
胸元にしまったシロツメクサの指輪の感触だけを頼りに、夜の闇へと足を踏み入れる。
待っていなさい、魔王。
お前がどこにいようと、必ず私が見つけ出して、その首を刎ねてやる。
誰の仇なのかも分からない、この冷たい殺意だけを道標にして。




