誰がための殺意、忘却の十字架
SideA
血と硝煙の匂いが立ち込める戦場に、私はふわりと舞い降りた。
漆黒の翼を畳み、禍々しい骨の仮面越しに視線を下ろす。そこには、無数の魔物の死骸の中央で、白銀の光を放つ『聖剣』を構えたルミエが立っていた。
「……よくぞここまで来たな、勇者よ」
私が低く冷たい声――かつて奪ったと宣言した『アルティナの声』で語りかけると、周囲の騎士たちは恐怖に顔を歪め、後ずさった。
だが、ルミエだけは違った。
彼女はまばたき一つせず、氷のように冷たい青い瞳で私を真っ直ぐに見据えている。怯えも、焦りもない。ただ純粋な「排除」の意思だけが、その細い体に満ちていた。
「魔王。……お前を殺す」
ルミエが地を蹴った。
速い。以前、村で剣を向けられた時とは比べ物にならない踏み込みだ。
白銀の刃が、私の首筋めがけて一切の躊躇なく振り抜かれる。私は咄嗟に魔力で障壁を展開したが、聖剣の光はそれを紙のように容易く切り裂いた。
「チィッ……!」
私は大きく後ろへ飛び退き、ルミエの連撃を間一髪で躱す。
ルミエの剣筋には、人間らしい「迷い」や「隙」が完全に消え失せていた。
普通、どれほど訓練を積んだ騎士でも、バケモノを前にすれば恐怖で呼吸が乱れ、剣筋にわずかな淀みが生まれるものだ。
しかし、ルミエの攻撃はまるで精密な機械のようだった。感情というノイズが一切ない。
私はその完璧な剣舞に防戦一方になりながらも、仮面の下で口元を綻ばせていた。
(すごい……! ルミエ、君は本当に完璧な勇者になったんだね!)
私は嬉しかった。私の嘘が、私の用意した舞台が、あの子をこんなにも強く、美しく成長させたのだと。
だが、このまま黙ってやられるわけにはいかない。私はルミエにとって「絶対に倒さなければならない憎き悪役」でなければならないのだから。
私はルミエの剣を巨大な魔力弾で弾き返し、わざと彼女を挑発するように笑い声を上げた。
「クックック……どうした勇者! その程度か? 貴様の剣からは、何の怒りも伝わってこないぞ!」
「……」
「忘れたとは言わせぬ! 我は、貴様の最も愛する親友を食い殺し、こうして声まで奪ってやったのだ! ほれ、もっと我を憎め! 怒りで剣を振るってみせろ!!」
わざと、彼女の大好きだった私の声色を強調して叫ぶ。
私の言葉を聞いたルミエの表情に、初めてわずかな「波」が立った。
「……黙れ。お前が、その声で喋るな」
ルミエがギリッと奥歯を噛み締める。
聖剣が、彼女の怒りに呼応するように強烈な光を放ち始めた。
「絶対に許さない! 私はお前を殺して……お前が殺した、私の大切な人の仇を討つ!!」
彼女は怒りに満ちた声で叫び、聖剣を高く振り上げた。
――これでいい。それでいいんだ、ルミエ。
私への憎悪だけを生きる糧にして、迷わず私の首を刎ねてくれ。
私が、彼女のすべてを受け入れる覚悟を決めた、その瞬間だった。
ピタリ、と。
ルミエの動きが、不自然に止まった。
振り上げた聖剣の光が、彼女の体を包み込むように脈打っている。
まるで、過剰に膨れ上がった「怒り」や「悲しみ」という感情そのものを、強制的に吸い上げ、漂白していくかのように。
「……あれ?」
ルミエの瞳から、スッと怒りの色が抜け落ちた。
ひどく戸惑ったような、まるで迷子になった幼子のような空虚な表情。
彼女は振り上げた剣をゆっくりと下ろし、首を傾げた。
「仇を、討つ……?」
「ルミ……エ?」
私は思わず、魔王の演技を忘れて素の声を漏らしてしまった。
ルミエは私を見つめたまま、まるで答えの出ない難問に直面したように、ぽつり、ぽつりと呟いた。
「ねえ、魔王。お前が食い殺したっていう……その声の持ち主の名前は、何だっけ?」
――心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような気がした。
ルミエは嘘を吐いているわけでも、混乱しているわけでもなかった。
彼女の青い瞳は、ただ純粋な「疑問」だけで満たされていた。
「私、誰の仇を討つために……こんなに怒ってたんだっけ……!?」
ルミエが、自分の頭を抱え込むようにして後ずさる。
その左手の薬指には、私があげた『シロツメクサの指輪』が嵌まっていた。
指輪の贈り主を。私と一緒に笑い合った日々を。私という存在のすべてを。
あの子は今、完全に「忘れた」のだ。
ドクン、と。
私の中で、何かが決定的に壊れる音がした。
(……あ、あぁ……そういう、ことだったの……?)
ルミエが完璧な勇者になれたのは、聖剣が彼女の心を恐怖から守ってくれていたからじゃない。
聖剣の力が、彼女から『人間としての記憶と感情』を代償として削り取っていたからだ。
戦うたびに。聖剣を振るうたびに。
私の用意した舞台で、彼女が私を殺そうと力を込めるそのたびに!
(私が……私がルミエから、『私』を奪っていた……!?)
ルミエの記憶を喰らい尽くし、彼女を空っぽのバケモノに変えていた本当の元凶。
それは魔物でも聖剣でもなく、彼女を英雄にしようと目論んだ、私自身の『身勝手な献身』だったのだ。
「ああ……あああぁぁぁ……ッ!!」
私は仮面を両手で押さえ、絶叫した。
仮面の下で、アルティナの顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていく。
今すぐ仮面を引き剥がして、「私はここだよ、アルティナだよ!」と叫びたかった。ルミエを抱きしめて、あの剣を遠くへ投げ捨ててやりたかった。
だが、私を不気味なものを見るような目で見つめるルミエの冷たい視線が、それを許さなかった。
今更、そんなことをして何になる? 彼女はもう、アルティナが誰なのかも分からないのに。
引き返すことなど、もう出来ないのだ。
「……勇者よ。貴様は、己の大切なものの名すら忘れたというのか」
私は血を吐くような思いで、再び魔王の声を絞り出した。
これ以上戦えば、あの子の記憶がもっと削られてしまう。
私は黒い翼を広げ、逃げるように空へと舞い上がった。
「哀れな操り人形め。我を追ってこい。貴様のその空っぽの心に、絶望だけを刻み込んでやろう……」
戦場から遠ざかりながら、私はただ一人、虚空に向かって泣き叫んだ。
私が作り上げた完璧な舞台は、愛する人を最も残酷な形で壊していく拷問器具だった。
呪われし最凶の魔王。その名にふさわしい、愚かで取り返しのつかない罪が、私の魂を真っ黒に焼き焦がしていた。




