白銀の虚無と、こぼれ落ちる思い出
SideB
生臭い血の飛沫が、私の頬にべっとりと張り付いた。
「ギギ……ッ、アァァ……!!」
醜悪な豚の顔をした魔物が、私の足元で断末魔の叫びを上げて崩れ落ちる。
私は無表情のまま、その巨大な胴体から『聖剣』を引き抜いた。
白銀の刃は、魔物の黒い血を弾き、汚れ一つなく美しい光を放っている。
「す、すごい……! ルミエ様、お見事です!」
「あんな巨大なオークを、たった一撃で……! さすがは神に選ばれし勇者様だ!」
背後で、私を護衛する王都の騎士たちが歓声を上げる。
私は振り返り、頬についた血を手の甲で無造作に拭いながら、彼らに向かって微笑みかけた。
「皆さんも、お怪我はありませんか? 魔物の群れは退けたようです」
「は、はいっ! 勇者様の放つ聖なる光のおかげで、我々はかすり傷一つありません!」
「おお、なんという慈愛に満ちたお姿……!」
騎士たちは感激し、その場に膝をついて祈りを捧げ始める。
私は彼らに優しく頷きながら、ふと、自分の心の中に『何の感情も湧き起こっていない』ことに気がついた。
村を出て、もう数週間が経つ。
最初の頃は、魔物の姿を見るだけで足がすくみ、剣を振るうたびに吐き気に襲われていた。誰かが怪我をするたびに泣きじゃくり、夜は恐怖で眠れなかった。
だけど今は、違う。
どれだけ恐ろしい魔物が目の前に現れても、心臓の鼓動一つ早くならない。
聖剣の柄を握っている限り、私の心は常に、波一つない静かな湖面のように『凪いで』いるのだ。
(……不思議ね。全然、怖くない)
恐怖がないだけではない。
悲しみも、焦りも、疲労さえも。聖剣の冷たい光が、私の中にある「戦いの邪魔になる不純物」を、すべて綺麗に漂白してくれる。
時折、戦場に似合わないはずの私が、ひどく冷酷で無機質な「完璧な勇者」として振る舞えていることに、自分自身でも違和感を覚えることがある。
だけど、すぐに聖剣が『それでいい。お前はただの剣になれ』と囁きかけ、その違和感すらも心地よい麻酔のように消し去ってしまうのだ。
その日の夜。
野営のテントの中で、私は一人、胸元から一本の革紐を取り出した。
そこには、あの『シロツメクサの指輪』が結びつけられている。
あの日、村を焼いた魔王。
漆黒の翼を持ち、禍々しい骨の仮面を被ったバケモノ。
そいつは、私の最も愛する親友を食い殺し、彼女の声を奪って、私を嘲笑った。
あの瞬間の憎悪だけが、私が唯一手放さずに持っている「強い感情」だった。
「……絶対に、許さない。お前を殺して、アルティナの仇を討つ」
私は指輪をきつく握りしめた。
どれだけ心が漂白されようと、この指輪を見るたびに、アルティナへの愛と、魔王への殺意が蘇ってくる。
彼女は、私の世界のすべてだった。
優しくて、温かくて、いつも私を守ってくれた。
……あれ?
私はふと、眉をひそめた。
指輪を見つめながら、アルティナの「温もり」を思い出そうとした時のことだ。
(アルティナの手って……どんな大きさだったっけ?)
記憶を探る。
彼女の手のひらの感触。私の頭を撫でてくれた時の、指先の温度。
いつも一緒に手をつないで丘を登っていたはずなのに、なぜか、その『感覚』がすっぽりと抜け落ちていた。
それだけじゃない。
あの日、彼女がこの指輪を私の指にはめてくれた時。
彼女は私に、何かとても大切な「約束」の言葉をくれたはずだ。
だけど、その言葉が何だったのか、どうしても思い出せない。ノイズがかかったように、肝心な部分だけが黒く塗りつぶされている。
「うそ……どうして?」
私は焦って、自分の頭を軽く叩いた。
アルティナの髪の色。アルティナの背の高さ。アルティナの声。
……声?
彼女の声を思い出そうとすると、脳裏に再生されるのは、あの『魔王の仮面の下から響いた、低く冷たい声』ばかりだった。
(違う! あれは魔王が奪った声で、本当のアルティナは、もっと……もっと……!)
思い出せない。
大切なはずの思い出が、まるで砂の城が波にさらわれるように、私の心からサラサラと崩れ落ちていく。
ザワッ、と背筋に悪寒が走った。
私が、アルティナを忘れる?
そんなこと、あるはずがない。絶対に許されない。彼女の死を背負って戦うと決めたのに、その彼女の記憶を失うなんて。
パニックになりかけた私は、すがるように『聖剣』の柄に手を伸ばした。
――冷たい銀の感触が、手のひらに伝わる。
その瞬間だった。
『……不要だ』
すーっと、魔法のように頭の霞が晴れていく。
先程までの焦燥感も、思い出せないことへの恐怖も、あっという間に真っ白な光の中へ溶けて消えた。
(……そうね。過去の感触なんて、魔王を討つためには不要なものだわ)
私はふっと息を吐き、穏やかな表情を取り戻した。
思い出が欠けているなら、仇を討つという『事実』だけを胸に刻めばいい。
私は人間としての弱さを捨てて、完璧な英雄にならなければいけないのだから。
私はシロツメクサの指輪を胸の奥にしまい込み、代わりに、冷たい聖剣を抱き寄せるようにして目を閉じた。
もう、悪夢を見ることはなかった。
私の心は、何もない空虚な白銀の世界で、静かな眠りについていた。




