冷たい聖剣と、夜に溶けた最後の温もり
SideB
世界が、凍りつくような白銀に染まっていく。
村の広場に突き刺さっていた『聖剣』を引き抜いたあの日から、毎晩のように私を苛む悪夢。
私は血の海の中に立っている。
けれど、足元を満たす液体は赤ではなく、タールのように黒く濁っていた。
周囲を取り囲むのは、顔のない人々。
「我らを救いたまえ」
「おお、完璧で純真なる勇者よ」
彼らの声は、千の石となって私の胸を押し潰す。
恐ろしくなって手にした剣を捨てようとする。
だが、剣の柄はまるで私の肉体の一部のように皮膚と融合し、離れてくれない。
『恐怖など不要だ。痛みも不要だ。すべて、私に差し出せばいい』
白銀の光が私の血管を凍らせ、心臓へと迫ってくる。
声も出ない。誰か、助けて。私を、ただの「私」のままにしておいて――。
「……っ、いやぁっ!」
跳ね起きると同時に、肺に冷たい空気が流れ込んできた。
全身が汗でびっしょりと濡れている。そこは戦場ではなく、見慣れた自分の小さな部屋だった。
「はぁ……はぁ……っ」
パニックを起こしかけている心臓を落ち着かせるように、私は自分の胸を強く抑え込んだ。
無意識のうちに、右手は左手の薬指を探り当てている。
そこには、丁寧に編み込まれたシロツメクサの指輪があった。
ざらりとした茎の感触。
微かに残る、陽だまりのような甘い花の香り。
昨日、アルティナが作ってくれた私のお守り。
指先にその形を感じた瞬間、胸の奥の恐怖が溶け出し、泣きたくなるほど優しい痛みが広がった。
「アルティナ……」
彼女の名前を口にするだけで、自分がまだ「ただの村娘のルミエ」であることを確かめられる気がした。
なぜ、私が選ばれてしまったのだろう。
私はごく普通の、どこにでもいる少女だった。
アルティナと一緒にアップルタルトを焼き、花冠を作って笑い合う、そんなありふれた日常が大好きだった。血を見るのも、誰かが傷つくのも大嫌いだ。
なのに、聖剣は私を選んだ。
大人たちの目は恐ろしかった。誰も「ルミエ」という一人の人間を見ていない。
彼らにとって私は、魔物の脅威から身を守ってくれる都合の良い『神の代行者』でしかなかった。
枕元に立てかけた聖剣が、青白い光を放っている。
あの柄に触れるたび、私はひどく奇妙な感覚に襲われる。
恐ろしいほどの『凪』。
波立っていた不安や恐怖が、無理やり漂白されていく感覚。
自分が自分ではなくなっていくような、人工的な安らぎ。魔物よりも、私の心を作り変えようとしてくるこの剣の方が、ずっとおぞましかった。
ギィ、と古びた扉が開く音がした。
「ルミエ……起きてるの?」
暗がりの中に立っていたのは、この世界でただ一人、私が会いたかった人。
だけど、今日のアルティナは少し様子が違った。寝間着ではなく、なぜか外出着のローブを羽織っていて、その表情はひどく青ざめ、思い詰めているように見えた。
「アルティナ……」
それでも彼女の顔を見た瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
私はベッドから転がり出るようにして、彼女の胸に飛び込んだ。
「怖いよ、アルティナ……っ」
私は彼女の肩に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
「勇者になんてなりたくない。誰も殺したくない。あの剣、すごく冷たいの。持っていると、私が私じゃなくなっちゃうみたいで……っ」
私がこんなに泣けば、優しいアルティナがどれほど心を痛めるか分かっている。
それでも、どうしても弱音を吐くのを止められなかった。
アルティナは無言のまま、私の震える背中をギュッと強く抱きしめた。
……少しだけ、痛いくらいに。
まるで、これが最後の抱擁であるかのように、私の温もりを確かめるような強い力だった。
「ごめんね、ルミエ」
頭の上から降ってきた声は、微かに震えていた。
「貴女に、あんな冷たい剣なんて似合わないのに……!貴女は、ひだまりの中で笑っているのが一番可愛いのにね……」
「アルティナ……?」
私は顔を上げようとしたが、アルティナの手が私の後頭部を優しく抑え、それを許さなかった。
「ルミエが泥を被る必要なんてないよ。怖い思いも、全部……私が引き受けてあげるから」
アルティナの視線が、私の肩越しに、枕元の『聖剣』を睨みつけているのがわかった。
絶対的な憎悪。
親友を苦しめる運命そのものを、根絶やしにするような凄まじい目だった。
「……ねえ、ルミエ。もしもこの世界に、誰の目から見ても明らかな『最悪のバケモノ』がいたら……貴女は、迷わずにその剣を振れる?」
「え……? 何、を言ってるの?」
「ううん、独り言。……だから、もう泣かないで」
アルティナは私の額に、そっと、長く唇を落とした。
それはまるで、どこか遠くへ旅立つ人が残す、祈りのような口づけだった。
「アルティナ、待って。どこに行くの……?」
ローブの裾をひるがえし、彼女は立ち上がる。
部屋を出ていく彼女の背中が、なぜか二度と手の届かない遠い場所へ行ってしまうような気がして、私は思わず手を伸ばした。
だけど、アルティナは振り返らなかった。
「大好きだよ、ルミエ。……さようなら」
バタン、と静かに扉が閉まる。
一人きりになった部屋で、私は自分の左手を見つめた。
アルティナが残した「さようなら」という言葉の響きが、嫌な予感となって胸に渦巻いている。
だけど、アルティナの温もりを知ってしまった今の私は、もう引き返せなかった。
彼女のあの深い悲しそうな顔を、これ以上見たくない。
「……私が、やるしかないんだ」
私は指輪にそっと口づけを落とすと、壁に立てかけられた聖剣を握りしめた。
――その瞬間、先程まで私の胸を占めていた恐怖も、嫌な予感も、すべてがすーっと遠のいていくような感覚を覚えた。
まるで、分厚いガラスの向こう側の出来事のように。感情が、白く漂白されていく。
大丈夫。私は人間だ。アルティナを守るためなら、心が凍りついても構わない。
私は彼女のための英雄になる。
ただ、この時の私はまだ知らなかった。
扉の向こうへ消えたアルティナが、私を英雄にするためだけに、村の禁忌である『瘴気の祠』へと向かっていたことを。
そして、この聖剣がもたらす心の「凪」こそが、私の魂から「アルティナとの思い出」を削り落としていく、最も残酷な代償なのだということに。




