白紙の魂と、冥府に沈む業
SideA
あれから、何十年の歳月が流れただろうか。
黄金色だったルミエの髪は、すっかり雪のように白くなり。
魔物を一刀両断した細くしなやかな腕は、枯れ枝のように細く、皺だらけになった。
それでも彼女は、歩き続けた。
世界中のあらゆる街を訪れ、老若男女問わず、誰彼構わずに「この指輪の持ち主を知りませんか」と尋ね続ける、空虚な巡礼の旅。
その間、私は一度も彼女のそばを離れなかった。
彼女が雨に打たれれば、幽霊の体で無意味な傘を作り。
彼女が孤独な夜を過ごせば、聞こえないと分かっていても、ずっと子守唄を歌い続けた。
そして今日。
名もなき村の、小さな宿屋のベッドの上で。
かつて世界を救った『完璧で純真な勇者』は、静かにその寿命を迎えようとしていた。
「ルミエ……。ルミエ……っ」
私は、彼女の冷たくなっていく手を両手で包み込み、ボロボロと涙を流した。
幽霊の涙は彼女の頬を濡らすことはない。
それでも、私は祈らずにはいられなかった。
もうすぐ、肉体の縛りが解ける。
聖剣の呪縛が解ければ、きっと、あの光に削り取られた記憶が戻ってくるはずだ。
最期の最期でいい。私を見つけて、「アルティナ」と名前を呼んでほしい。
そうすれば、この何十年の地獄のような孤独も、すべて報われるから。
ルミエの胸の上下が、ゆっくりと、ゆっくりと小さくなっていく。
彼女は、完全に粉のようになってしまった『シロツメクサの指輪』の残骸を胸に抱きしめ、微かに唇を震わせた。
私は息を呑み、その声に耳を澄ませる。
「……私は」
掠れた、か細い声。
あの日、私を殺した時と同じ、何の感情も籠っていない、無機質な響き。
「私は……誰だったの、かしら」
――え?
私の思考が、停止した。
ルミエの瞳から、最後の光がスッと消え失せる。
彼女が最期に探したのは、愛する親友の名前でも、約束の言葉でもなく。
自分自身が何者であったかという、途方もない『虚無』に対する問いかけだった。
「ルミエ……? 嘘でしょ、ルミエ……!」
彼女の肉体から、ふわりと、光の玉のようなものが抜け出した。
ルミエの魂だ。
私は咄嗟にそれに手を伸ばし――そして、絶望に目を見開いた。
白い。
あまりにも、白すぎる。
彼女の魂には、傷一つ、染み一つなかった。
それはつまり、彼女が人間として生きてきた喜びも、悲しみも、私への愛も、何もかもが存在しないということ。
代償として失われた記憶は、死ねば戻ってくるような生易しいものではなかったのだ。聖剣の法則に従って完全に『消滅』し、二度と誰の元へも戻らない。
彼女は本当に、中身のない、ただの白紙になってしまったのだ。
「待って……待ってよ、ルミエ! 置いていかないで!」
天へと昇っていく真っ白な魂に向かって、私は叫びながら手を伸ばした。
どんなに空っぽでもいい。私が全部、最初から教えてあげるから。
一緒に死後の世界へ行こう。ずっと、ずっと一緒に……。
だが、私の指先が彼女の魂に触れる直前。
――ズルリ。
私の足元から、どす黒い泥のような『手』が無数に這い出し、私の足首を乱暴に掴んだ。
「きゃあッ!?」
凄まじい力で、下へ、下へと引きずり込まれる。
足元に開いたのは、血と炎の匂いが吹き荒れる、底なしの暗穴。
冥府の門だ。
(あ、あぁ……)
その泥の手の正体を、私は理解した。
これは、私が殺した無数の人間の怨念。魔王として背負った、逃れられない『業』。
ルミエを完璧な勇者にするために、私が自ら望んで手を汚した、罪の代償。
「いや、いやぁぁぁっ! ルミエ、ルミエェェッ!!」
黒い泥が私の腰を、胸を、首を飲み込んでいく。
視界の遥か上空では、私の絶叫など何一つ聞こえていない『純白の魂』が、一切の未練もなく、ただただ静かに天へと昇っていく。
二人の魂が、交わることはない。
死後の世界でさえ、彼女は天界へ、私は地獄へ。
永遠に、絶対に、出会うことは許されないのだ。
全身が冥府の泥に沈みゆく中、後悔だけが残る静寂の中で、私はようやく悟った。
私が命を賭けて、彼女に与えたもの。
それは、誰も傷つかない『平和』なんかじゃなかった。
彼女から自分という存在すらも奪い去る、一生消えない、残酷で完璧な『虚無』だったのだ。
「……ごめん、なさい……るみ、え……」
泥が私の口を塞ぐ。
愛がもたらした最悪の喜劇は、真っ白な虚無と、真っ黒な絶望に分かたれ、誰の記憶にも残ることなく幕を下ろした。




