永遠の空室と、触れられない幽霊
SideA
魔王が討伐されてから、数ヶ月が過ぎた。
世界は平和そのものだった。空を覆っていた瘴気は晴れ、人々は魔物の恐怖に怯えることなく、豊かな実りを謳歌している。
その中心にいるのは、もちろん『完璧で純真な勇者』であるルミエだ。
王城の最も美しく、豪華な一室が彼女に与えられた。
毎日、絶え間なく貴族や神官、そして民衆たちが彼女に謁見を求めてやってくる。
「おお、勇者様! あなたの放つ神々しい光は、我々の希望そのものです!」
「ルミエ様、どうかこの花を受け取ってくださいませ!」
豪華なドレスに身を包んだルミエは、玉座のような椅子に座り、彼らに対して完璧な微笑みを返していた。
「ありがとうございます。皆さんの笑顔が見られて、私も幸せです」
鈴を転がすような、澄み切った優しい声。
誰もがその美しさと慈愛に打たれ、涙を流して彼女を讃える。
……だが、幽霊となって彼女のすぐ隣に浮かんでいる私には、わかっていた。
謁見の時間が終わり、重厚な扉が閉ざされて、部屋に彼女一人きりになった瞬間。
スッ、と。
ルミエの顔から、あの『完璧な微笑み』が、糸の切れた操り人形のように抜け落ちたのだ。
「……」
彼女は、もらったばかりの美しい花束を、何の感慨もない様子でテーブルの上にコトリと置いた。
青い瞳は、どこを見るでもなく虚空を彷徨っている。
疲労のせいではない。彼女の心の中には『嬉しい』という感情も『疲れた』という感情も、何一つ存在しないのだ。ただ「人前ではこのように表情筋を動かす」というプログラムが終了し、待機状態に戻っただけ。
「ルミエ……っ」
私はたまらず、彼女の正面に回り込み、その両頬を包み込もうと手を伸ばした。
しかし、私の半透明の指先は、彼女の白い肌を空しくすり抜ける。
「お願い、ルミエ……何か言って。怒っててもいい、悲しんでてもいいから……心がないなんて、そんなの嘘だって言ってよ……!」
声の限りに叫ぶ。だが、幽霊である私の声は、彼女の鼓膜を一切揺らさない。
私が彼女の頬を撫でようとすればするほど、彼女の金糸のような髪が、わずかに揺れるだけだ。
「……隙間風かしら。少し、冷えるわね」
ルミエはぽつりと呟き、無表情のまま窓際へと歩いていく。
私の魂の叫びは、彼女にとってただの『冷たい風』としてしか認識されていないのだ。
自分の愛した人が、自分のせいで心を失い、その空っぽの器に触れることすら許されない。これが、罪深い魔王に与えられた永遠の罰なのだろうか。
夜の静寂の中、ルミエは窓辺に立ち、左手を月の光に透かした。
彼女の薬指には、今も『シロツメクサの指輪』が嵌まっていた。
水分を完全に失い、茶色く変色して、今にも崩れ落ちそうな枯れ草の輪。
あの日、魔王城で彼女は、私の首から落ちた『対の指輪』を躊躇なく踏み潰した。だからこの世界にはもう、彼女の指にあるこの一つしか残っていない。
ルミエは、右手でその枯れ草にそっと触れた。
そして、胸元から一枚の古びた羊皮紙を取り出す。彼女が、まだかろうじて「人間」だった頃に書き残した、あの遺書だ。
『この指輪を、あるべき場所へ返さなきゃ。魔王を殺せば、きっと指輪の持ち主が待つ場所へ帰れるはずだから』
ルミエは、その文字を指でなぞりながら、小首を傾げた。
「……おかしいわね」
抑揚のない、機械的な声。
「魔王は、殺したのに。……どこに行けば、この『持ち主』に会えるのかしら」
――ああ。あああああぁぁぁ……ッ!!
私は、自分の髪を掻き毟りながら、声にならない悲鳴を上げて床を転げ回った。
当然だ。出会えるはずがない。
彼女が探している『持ち主(私)』は、彼女自身がその手で殺し、光の粒子に変えて消し去ってしまったのだから。
あの時、ルミエは「親友の仇」として私を殺した。しかし私の魔法によってその「殺した記憶」すらも漂白されてしまった。
今のルミエに残っているのは、『持ち主を探して指輪を返す』という、意味も文脈も欠落したマニュアル(遺書)の記述だけ。
彼女は、永遠に存在しない幻を探し続けるのだ。
自分の心がないことも理解できないまま。
私がすぐ隣で、狂いそうなほど泣き叫んでいることにも気づかないまま。
「ルミエ……ごめん、ごめんなさい……! 私が間違ってた、私がバカだったの……! 許して、ルミエッ!!」
何度謝っても、何度その体を抱きしめようとしても、私は空気を空しく掻き切るだけ。
ルミエは、私の絶叫など知る由もなく、冷たい月を見上げた。
「……明日から、旅に出ましょう。世界中を探せば、きっと見つかるはずだわ」
彼女は、誰のものかもわからない指輪を胸に抱き、完璧に美しい、人形のような微笑みを浮かべた。
愛する人を救うためにすべてを投げ打った魔王は、誰にも見えない幽霊となって、永遠に続く悲劇の観客席に縛り付けられたのだ。




